忘却の風に身を任せ第2話
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電話越しに、母の喜びに満ちた声が弾けた。「本当によかったわ!じゃあ、すぐに手続きするからね。手続きが終わったら、もう後戻りはできないからね」
スマホを握る指先は微かに震えていたが、それでも彼女の声は揺るぎなく響いた。「大丈夫、私は後悔なんてしない」
母が電話を切ろうとした時、ふと思い出したように尋ねてきた。「そういえば、詩穂の彼氏はどうするの?あれだけ長く追いかけて、すごく好きだったんじゃないの?」
「彼氏」という言葉が、鋭い針のように胸に突き刺さる。
脳裏に蘇るのは、あの病室の嘲笑、颯真がベッドにもたれスマホをいじる姿、彼の仲間たちの悪意に満ちた笑顔、そして緋月のために三年もの歳月を費やして自分に復讐した彼の冷酷さ。
心臓がぎゅっと縮み上がり、息が詰まりそうになる。
「もう好きじゃない」自分の口から出たその声は、掠れていたけれど、どこか静かで冷え切っていた。「もう二度と、好きにはならない」
電話を切った後、詩穂は道端に立ち尽くしたまま、冷たい風に髪を乱されていた。灰色の空を見上げ、深く息を吸い込み、「家」へと向かった。
ドアを開けた瞬間、懐かしい匂いが全身を包み込む。
玄関に立ち尽くし、見慣れたリビングの光景を眺める。
ここは颯真が、告白を受け入れたその日に渡してくれた鍵で入るようになった家。
あの日、彼はドアに寄りかかり、気だるそうに言ったのだ。「同棲しよう」
その時の自分は、恥ずかしくて、でも嬉しくて――これが二人の恋の始まりだと、本気で信じていた。
この家でいつか結婚して、子どもが生まれて、幸せな日々を過ごす。そんな未来まで、密かに夢見ていた。
けれど今となっては、すべてが滑稽に思える。
同棲?ただ復讐をやりやすくするための口実だったのだろう。
彼がどれほど緋月を愛していたのか。三年もの歳月をかけて、同じ家で暮らし、あんなに何度も自分と……セックスした。
すべては、自分に「愛されている」と信じ込ませるためだった。
その後の三日間、詩穂は一度も颯真を見舞うことなく、ひたすら家にこもっていた。彼に関するものを、ひとつひとつ整理し始めた。
片想い時代につけていた日記帳を取り出し、ページをめくる。
「今日も図書館で彼に会えた。彼の白いシャツ姿、本当に素敵!」
「今日は彼が私に話しかけてくれた。ただの頼みごとでも、一日中幸せだった」
「彼が私の告白を受け入れてくれた。これって夢かな」
ページをめくるたび、静かに涙がこぼれる。
日記帳をゴミ袋に投げ入れる。まるで、少しずつ自分の心から彼への想いを剥がし落としていくかのように。
次に手をつけたのは、彼に贈ったプレゼントの数々だった。
ネックレス、腕時計、コート、どれも彼への想いを込めて選んだものだった。
最後は、こっそり撮った彼の写真だった。
スピーチをする姿、バスケをする姿、廊下で誰かと話す姿……どの写真も、彼女を心からときめかせた。
全部、ゴミ箱へ。それは、過去の自分との決別だった。
三日目の夕暮れ、とうとう最後の荷物を整理し終えた。
がらんとした部屋の真ん中に立つと、不思議なくらい心が軽くなった気がした。
その時、颯真がドアを開けて帰ってきた。
空っぽになった部屋を見回し、眉をひそめる。「何か捨てたのか?」
詩穂は静かな目で彼を見上げた。「別に。ただのいらないもの」
颯真は少し苛立った様子で歩み寄った。「俺、あんなに重傷なのに、どうして一度も見舞いに来なかった?」
詩穂は薄く笑みを浮かべ、冷たく答えた。「もう退院したんじゃない?そんなに重傷なら、こんなに早く帰ってこられるはずないけど」
颯真は少し面食らったような顔をしたが、すぐに口を開いた。「お前が俺にたくさん血をくれたって聞いて、心配で帰ってきたんだ」
そう言いながら、彼女の腕に目をやり、珍しく優しい声を出した。「痛まないか?」
詩穂はそっと手を引っ込めて、静かに返す。「何も感じないわ」
颯真は彼女の冷淡な態度に気づき、眉を寄せた。「一体どうしたんだ?俺が入院しただけで、お前随分変わったな」
詩穂は彼を見つめ、一瞬だけ薄く笑った。「どこが?」
彼は答えなかった。だが、二人ともそれがどういう意味かわかっていた。
かつて、彼女の目には愛しかなかった。彼が少し風邪を引いただけで、彼女は大袈裟なほどに心配し、彼のそばを離れようとしなかった。
でも今は、彼が三日も入院していたのに、一度も連絡すらよこさなかった。
颯真はじっと彼女の顔を見つめ、何かを探るようにしていた。
そしてふいに、優しく低い声で切り出した。「最近疲れてるんだろう?今日、俺の歓迎会があるんだ。一緒に行こう!」
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