忘却の恋、覚醒の裏切り第2話
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花音は独り、家路についた。
帰宅後、リビングで救急箱を引っ張り出すと、自分で消毒と薬を塗り、包帯を巻いた。
傷口から這い上がるような細かな疼きが、絶え間なく神経を蝕んでいく。
二階へ上がろうとしたとき、リビングの隅にあるグランドピアノがふと目に留まった。
記憶を取り戻したばかりの碧斗が、「ピアノを教えてあげる」と言って買い与えてくれたものだった。
しかし、それから随分と時が流れた今、ピアノの蓋には厚い埃が積もっている。
それは、とうの昔に埃を被り、輝きを失ってしまった二人の愛そのものだった。
目頭が熱くなるのを堪え、花音は部屋に入って荷造りを始めた。
服、身分証明書、クレジットカード……一つ一つ整理するその手つきは、過去の自分に別れを告げるかのように、ひどく緩慢だった。
整理が半分ほど済んだとき、突然ドアが開いた。
碧斗が入り口に立っていた。ジャケットを腕にかけ、ネクタイは少し緩んでいる。
広げられたスーツケースを見て、彼は不快そうに眉を寄せた。「何をしているんだ?」
「荷物をまとめているの」花音は低く伏せたままで答え、手を止めずに服を畳んだ。
眉を寄せた彼が近づくにつれ、鼻先を掠めたのは、今日一日中、彩葉が纏っていたあの甘い香水の香りだった。
彼は花音の手首を掴んだ。その力は、彼女が痛みで顔をしかめるほどに強い。
「今日、彩葉と食事をしたのがそんなに気に入らないのか?だからって家出の真似事か。向こうは怪我をさせられたのに、お前を責めることもしなかった。それなのに、自分のほうが先にへそを曲げるとはな」
花音が顔を上げると、そこには隠しようのない苛立ちを浮かべた碧斗の瞳があった。
「高橋家と白鳥家は代々、深い付き合いがあるんだ。帰国したばかりの彼女を支えてやってくれと、両親からも頼まれている。少しは聞き分けを良くしたらどうだ?」
聞き分け。
その言葉が鋭い刃となって花音の心臓を抉る。彼女は掌の中の衣類を、くしゃくしゃになるほど強く握りしめた。
これ以上ないほど聞き分けよく、静かに身を引こうとしている自分に、まだ何を望むというのだろう。
「何か言え!」碧斗が不意に声を荒らげた。
花音は黙って背を向け、荷造りを続けた。
その頑なな沈黙が、碧斗の苛立ちを爆発させた。
「いいだろう。いつまでそんな子供じみた真似が続けられるか、試してみるがいい」
そう吐き捨てると、彼はドアを激しく叩きつけて部屋を去った。その衝撃に、彼女の心臓が小さく震えた。
翌朝、花音が階下へ降りると、リビングで彩葉が親しげに碧斗と談笑していた。
彼女は白いワンピースに身を包み、完璧なメイクを施して、この上なく清純で優雅に見える。
花音の姿を認めると、彩葉はすぐに立ち上がり、微笑みを向けた。「花音さん、おはよう。ごめんなさいね、両親がどうしても碧斗に今日のオークションのエスコートを頼みたいって仰るから……変に邪推しないでね?」
花音が碧斗を伺うと、男は手元の袖ボタンを整えるのに夢中で、彼女に視線一つ向けなかった。
「邪推なんてしていないわ」彼女の声は、消え入りそうなほど微かだった。「二人のことは、もう私には関係のないことだから」
碧斗の手が止まり、さらに深く眉間に皺が刻まれた。
彼が何かを言おうとした瞬間、彩葉がそれを遮るように言った。「だったら、花音さんも一緒に行きましょうよ。どうせ今日はお暇なんでしょう?」
拒否する間もなく、花音は彼女に腕を絡められ、そのまま車へと押し込まれた。
会場は煌びやかな光に包まれ、名士たちが顔を揃えていた。
碧斗は前列に座り、無造作に札を上げては次々と宝飾品や高級時計を競り落としていく。そしてそれらを、当然のように隣の彩葉へと手渡した。
彩葉は淑やかに微笑み、時折彼の耳元で囁く。その姿は、見ていて痛々しいほどに親密だった。
「碧斗、花音さんにも何か買ってあげたら?」殊勝な顔をして、彩葉が提案した。
碧斗は淡々と答えた。「彼女はこういうものは好まない」
彩葉は口角をわずかに上げ、碧斗からは見えない角度で、勝利者の笑みを花音に投げつけた。
花音はただ視線を落とし、手元のカタログを指先でなぞった。心はもう、氷のように冷え切っていた。
好まないから?それとも……私には不相応だから?
彼の目には、私はいつまでも掃き溜めから這い上がってきた女に過ぎないのだ。
たとえ今、彼の隣という特等席にいたとしても、私にはこうした煌びやかな品々に相応しい資格などないのだ。
しかし、構わない。どうせ、もうすぐすべてが終わるのだから。
花音は静かに片隅に座り、彼が彩葉のために一擲千金する様を、まるで他人の出来事のように見つめていた。
やがて、最後の出品物がステージへと運ばれてきた。
一点物のクリスタルネックレスだ。
それを見た瞬間、花音の呼吸が一瞬止まり、無意識に指先を強く握りしめた。それは、亡き祖母の形見だった。
三年前、碧斗は彼女に誕生日プレゼントを買おうと、無理をして工事現場の肉体労働にまで手を出したことがあった。そして作業中に足場から転落し、一時は生死の境を彷徨うほどの大怪我を負った。
碧斗の手術費用を工面するため、彼女は祖母が遺してくれた唯一の形見であるネックレスを、背に腹は代えられず手放した。
ようやく買い戻せるだけの金を貯めて店を訪ねたときには、時すでに遅く、それは別の誰かの手に渡った後だった。
それからというもの、彼女は街中の質屋を片っ端から探し回ったけれど、二度とその姿を見ることはなかった。
それが今、こうして予期せぬ形で、あまりに唐突に彼女の目の前に現れた。
花音は歓喜に震え、すぐに番号札を掲げた。「二千万円!」
彩葉が驚いたように振り返り、すぐに嘲笑を含んだ笑みを浮かべて札を上げた。「六千万円」
「八千万円!」
「一億円!」
執拗に競り合う二人を、碧斗が眉をひそめて交互に見つめた。
結局、彼は迷うことなく悠然と手を挙げ、圧倒的な最高値でその場の争いに終止符を打った。
オークショニアの木槌が鳴り響く。「落札です!おめでとうございます、高橋様!」
どよめきが広がる中、彼は彩葉へと向き直った。「君が気に入ったのなら、差し上げよう」
花音の手から、番号札が力なく床へと滑り落ちた。
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