忘却の恋、覚醒の裏切り第1話
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「十億円。一週間以内にこの国を離れて、二度と碧斗の前に現れないで」
高橋裕子(たかはし ゆうこ)は、浅見花音(あさみ かのん)の向かい側に座り、手入れの行き届いた顔に隠しきれない軽蔑を浮かべていた。
以前の花音であれば、目を真っ赤にして「お金のために彼と一緒にいるのではありません」と反論していただろう。
しかし今の彼女は、ただ静かに頷くだけだった。「分かりました」
裕子は明らかに呆気に取られた様子だったが、すぐに冷笑を浮かべた。「身の程を知っているようで安心したわ」
裕子は「身の程」という言葉を、まるで花音と高橋碧斗(たかはし あおと)との間にある絶望的な格差を強調するかのように言い放った。
花音は視線を落として黙り込み、その小切手を受け取ると、そのまま背を向けて立ち去った。
* * *
「十億円。一週間以内にこの国を離れて、二度と碧斗の前に現れないで」
高橋裕子(たかはし ゆうこ)は、浅見花音(あさみ かのん)の向かい側に座り、手入れの行き届いた顔に隠しきれない軽蔑を浮かべていた。
以前の花音であれば、目を真っ赤にして「お金のために彼と一緒にいるのではありません」と反論していただろう。
しかし今の彼女は、ただ静かに頷くだけだった。「分かりました」
裕子は明らかに呆気に取られた様子だったが、すぐに冷笑を浮かべた。「身の程を知っているようで安心したわ」
裕子は「身の程」という言葉を、まるで花音と高橋碧斗(たかはし あおと)との間にある絶望的な格差を強調するかのように言い放った。
花音は視線を落として黙り込み、その小切手を受け取ると、そのまま背を向けて立ち去った。
邸宅に戻った頃には、すでに日はとっぷりと暮れていた。
ここはあまりに広すぎて、彼女は今でも時折迷子になりそうになる。
唯一見慣れているのは、リビングのテーブルにある写真だけだった。写真の中の碧斗は彼女の腰を愛おしそうに引き寄せ、真冬の雪さえ溶かしてしまいそうなほど、甘く優しい眼差しを彼女に向けていた。
花音はそっと写真に触れ、三年前の雨の夜を思い出した。
あの年、路地の入り口で血まみれになって意識が朦朧としている碧斗を拾った。
「あなたは誰?」と彼女が尋ねる。
「俺……分からないんだ」彼は茫然と首を振り、雨水が血の混じった雫となって髪から滴り落ちていた。
そうして、彼女は記憶を失ったこの男を自宅へと連れ帰った。
わずか十平米の古びたアパートに、二人で身を寄せ合った。
壁の塗装はボロボロと剥げ落ち、水道は水漏れが絶えず、冬は三枚の布団を被らなければ眠れないほど寒かった。
しかし、そんな最も貧しい場所で、最も純粋な愛が育まれた。
肩を寄せ合うようにして生きる日々のなかで、いつしか互いの存在だけが、この世界のすべてになっていた。
碧斗は花音が残業のとき、会社の前で三時間も待ち、彼女を迎えに行った。
生理痛で冷や汗を流す夜は、一晩中眠らずに彼女のお腹をさすってくれた。
彼女が三回も見つめては諦めた高価なネックレスを買うために、内緒で一日五つのバイトを掛け持ちしたこともあった。
唯一、彼女が困り果てていたのは、彼が夜ごと熱烈に睦み合いをせがんでくることだった。
頬を赤らめて許しを請う彼女の耳たぶを甘噛みし、彼は低く掠れた声で囁いた。「……好きすぎて、どうしようもないんだ」
最も愛し合っていた頃、碧斗は花音をタトゥースタジオへ連れて行き、鎖骨に彼女の名前を刻んだ。
彫り師に痛くないかと聞かれ、彼は彼女を見つめて笑った。「痛いくらいがいいんだ。そうすれば、一番大切な人を忘れずに済むから」
こんな幸せが永遠に続くと思っていた。
碧斗が記憶を取り戻すまでは。
そこで初めて知った。彼は家もない貧乏人などではなく、帝都の名家である高橋家の御曹司だったのだ。金融界を牛耳る後継者が、ライバルの罠にかかって事故に遭い、記憶を失っていただけだった。
身分を取り戻した後、碧斗は花音を二千平米もの豪邸に住まわせた。バスルームだけでも、かつてのアパートより十倍は広い。
しかしそれ以来、彼もまた別人のようになってしまった。
彼は、彼女がブランド名すら分からないような高級スーツを纏い、価値のつけられないような腕時計をはめ、十億単位の商談をこなし、連日家には帰らない。
花音は「彼は忙しいだけだ」と自分に言い聞かせ、自分を騙し続けてきた。
だが、芸能ニュースに彼と白鳥グループの令嬢、白鳥彩葉(しらとり いろは)との熱愛報道が溢れかえったあの日、その幻想は無惨にも打ち砕かれた。
写真のなかで、仕立ての良いスーツを纏った彼は、エスコートするように彩葉のために車のドアを開けていた。見つめ合い、微笑みを交わす二人の姿はあまりに眩しく、それを見つめる花音の瞳を鋭く刺した
コメント欄は【お似合いだ】【まさに理想のカップル】といった、祝福の言葉で埋め尽くされていた。
その夜、窓辺で一晩中月を眺めていた花音は、ようやく一つの事実に気づいた。
吹雪のなかを迎えに来てくれた碧斗も、幾つも仕事を掛け持ちしてネックレスを贈ってくれた碧斗も、鎖骨に自分の名前を刻んだ碧斗も、記憶を取り戻したあの日に死んでしまったのだ。
今の高橋グループの御曹司である碧斗と自分の間には、雲泥の差がある。
彼は雲の上に立ち、彼女は泥の中に沈んでいる。
夜空に浮かぶ月が地上の塵に決して触れることがないように、彼のような人は、同じように輝く人と結ばれる運命なのだ。
ならば、これ以上惨めな思いをする必要はない。
別れよう。
彼を自由にしてあげて、そして、自分をこの苦しみから解き放つために。
その夜、広大な邸宅は相変わらずしんと静まり返り、碧斗は帰ってこなかった。
花音はいつものように深夜まで彼を待つことはせず、早めに眠りについた。そして翌朝、ビザの申請センターへと向かった。
追加料金を払って特急申請の手続きを済ませる。これなら、ビザもパスポートも一週間以内には手元に揃うはずだ。
ビザ申請センターを出たときには、すでに正午を回っていた。花音は、目についたレストランに適当に入ることにした。
扉を押し開けた瞬間、彼女の足が止まった。
窓際の席で、碧斗が紙ナプキンを使い、彩葉の口元を優しく拭っていた。
厳冬の氷をも溶かしそうなほどの慈しみに満ちたその眼差しは、かつてアパートで笑いながらキスを交わしたあの頃と、何ひとつ変わっていなかった。
花音はその場に釘付けになり、見えない手に心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような錯覚に陥った。
たまらず背を向けて立ち去ろうとしたが、焦りのあまり入り口の観葉植物に体をぶつけてしまう。
その音に、碧斗が顔を上げた。そこに立つ花音の姿を認めた瞬間、その瞳に宿っていた親密な光は、一瞬にして消え失せた。
彼はゆっくりと歩み寄り、唇を開く。その声は低く、そして冷徹だった。「……俺をつけていたのか?」
言い返す間もなく、彼はさらに言葉を重ねる。「ネットの噂なら、ただのビジネス上の付き合いだと説明したはずだ。いつまでそうやって騒ぎ立てれば気が済むんだ?」
花音は何かを言おうと唇を震わせたが、喉が固く締め付けられ、いくらもがいても言葉が形を成さない。
昨日、裕子が放った言葉が耳の奥でリフレインする。
「碧斗と彩葉の縁談は、両家でずっと前から決めていたことなの。彼自身も彩葉のことをとても気に入っているし……」
ビジネス上の付き合いというのは、その政略結婚のことなのだろうか。
「碧斗、そんなに怖い顔をしないで。せっかく会えたんだから、これも何かのご縁だわ」彩葉も歩み寄り、楽しげに笑ってその場をなだめた。「ねえ、よろしければご一緒しましょう?」
拒否する間もなく、花音は強引に彼らのテーブルへと連れて行かれた。
彼女は操り人形のように椅子に座らされ、氷のように冷え切った碧斗の顔と正面から向き合うことになった。
「花音さんは何が食べたい?ここのA国料理は、本場さながらの味で評判なのよ」彩葉はそう言って、メニューを彼女の前に差し出した。
花音は、そこに並ぶ見覚えのない外国語の綴りをじっと見つめた。意味の分からない記号の羅列を前に、形容しがたい惨めさが心の奥底からじわじわと広がっていく。
「……お腹は空いていないから」彼女はメニューを押し戻した。
「じゃあ、スープだけでも。素材の旨味が凝縮されていて、本当に絶品なのよ」彩葉は、海鮮の出汁がたっぷりと利いたスープを器に盛り、花音の前に置いた。
スープに浮かぶ海老の身を見つめた瞬間、花音の胃のあたりがきりきりと鳴るように痛んだ。
彼女は、重度の甲殻類アレルギーだった。
断ろうとしたその時、碧斗のスマホが鳴った。
彼は電話に出るために席を立った。その背筋の伸びた後ろ姿は、どこまでも凛としていて、微塵の隙もない。
その身に纏うスーツは、かつて雑誌の誌面で見かけたことのある代物だった。一着で、彼女が以前暮らしていた地区のアパートなど建物ごといくつも買い取れるほどに、途方もなく高価なものだ。
「さあ、召し上がれ」彩葉が不意に声を低めた。「あなたの身分じゃ、普段は一生口にできないような高級料理だもの」
花音が顔を上げると、そこには嘲笑を浮かべた彩葉の瞳があった。
「まさか、碧斗と少しの間付き合ったくらいで、本気でセレブの仲間入りができるなんて思っていないわよね?」彩葉はグラスの縁を指先でなぞりながら続けた。「彼が記憶喪失でさえなければ、あなたみたいな底辺の女、彼の靴を磨くことさえ許されないのよ」
花音は膝の上のナプキンを、指先が白くなるほど強く握りしめた。柔らかな布地が、手のひらの中で無惨にくしゃくしゃに丸まっていく。
自分は貧しい。それは否定できない事実だ。けれど、だからといって見ず知らずの他人に、ここまで土足で尊厳を踏みにじられるいわれはない。
「あなたとは今日初めて会ったばかりの、ただの赤の他人。それなのに、そんな……」
「きゃあっ!」
言葉を遮るように、彩葉が突然悲鳴を上げた。彼女は自らスープの皿を払い落とし、熱い液体が彼女の手の甲と、そして花音の手へと飛び散った。
異変に気づいた碧斗が駆け戻り、すぐさま彩葉の手を握った。「どうした、何があった!」
「ううん、大丈夫。全部、私のせいなの。二人きりで食事しているところを見られちゃったから……花音さんだって、あなたの恋人だもの。怒るのも無理はないわ……」彩葉は瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな震える声でそう告げた。
碧斗の視線が、ナイフのような鋭さで花音を射抜いた。「花音、何度も説明したはずだ。なぜ、これほどまでに執拗な真似をする?」
「違うわ、私は何も……彼女が自分で……」
「もういい!」彼は激しく言葉を遮った。「目の前で起きたことだ。これ以上、何を言い逃れするつもりだ?お前はいつから、そんなに度し難い女になったんだ!」
吐き捨てるように言うと、碧斗は彩葉を抱きかかえ、振り返ることもなく店を飛び出していった。
彼の肩に顔を埋めた彩葉が、一瞬だけこちらを向き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
花音はその場に立ち尽くし、真っ赤に腫れ上がった自分の手を見つめた。
すでに大きな水ぶくれができ、針で突き刺されているような激痛が走る。
しかし碧斗の目には、彩葉のわずかな赤みしか映っていなかった。
あんなにも急いで、迷うことなく彩葉を連れ去った。自分には一瞥もくれずに。
かつての碧斗は、誰よりも自分を慈しんでくれていたはずなのに。
三年前、料理中に火傷をしたとき、彼は泣きそうな顔で薬局へ走り、帰ってくるなり「花音、痛いか?」と言って、一晩中、薬を塗ってくれて、そばに寄り添ってくれた。
あの頃、彼の瞳には自分しかいなかった。
けれど、今の碧斗の瞳には、もう自分の姿など映っていないのだ。
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