忘却の恋、覚醒の裏切り第3話
この話は約1775字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
スタッフがうやうやしく差し出したそのネックレスを、花音は呆然と見つめることしかできなかった。彩葉が満足げに目を細め、それを受け取ろうと手を伸ばす。指先が箱の縁に触れた、その瞬間だった。
「あらっ!」
短い悲鳴と共に、ネックレスが箱から滑り落ちた。硬い大理石の床に叩きつけられたクリスタルネックレスは、パリンッという乾いた音を立てて無惨に砕け散った。
一瞬、花音の呼吸が止まった。耳の奥では、破片が飛び散る鋭い音だけが反響している。
頭の中が真っ白になり、彼女は本能のままに突き動かされるように駆け寄った。彩葉を突き飛ばすようにして退けると、震える手で地面の破片を拾い集める。
碧斗の顔色が瞬時に険しくなった。よろめいた彩葉を抱きとめ、花音へ向ける視線には刺すような冷たさが宿っている。「花音、一体何の真似だ!」
花音は血走った目で彼を見上げ、声を震わせた。「何の真似……?これは、おばあちゃんの形見なのよ!あなた、以前にはっきり言ったじゃない。いつか必ず、買い戻してあげるって……
なのに、そんなことさえ、もう覚えていないの?」
碧斗は一瞬、何かに触れたかのように呆然としていた。しかし、すぐにその瞳から微かな揺らぎは消え去り、冷ややかな色に塗りつぶされた。
「そんな昔のことを、いちいち覚えているわけがないだろう」彼は不快感を隠そうともせず、さらに言葉を重ねる。「それに、彩葉に悪気はなかった。それをお前は、わざわざ突き飛ばすなんて。いつからそんなに狭量な女になったんだ」
「ごめんなさい……私の不注意のせいで……」彩葉は瞳を潤ませ、消え入りそうな声で彼の袖を掴んだ。
碧斗はわずかに眉を寄せ、彩葉の涙を指先で拭ってやった。その声は驚くほど優しく、慈しむような響きを湛えていた。「君のせいじゃない。気にするな」
そして、彼は花音に冷ややかな一瞥を投げ、有無を言わせぬ口調で告げた。「このネックレスは俺が修理に出す。お前も、これ以上見苦しい真似はやめろ」
そう言い残すと、彼は彩葉の肩を抱き寄せ、ネックレスを手に取った。そして、一度として振り返ることなく、その場を立ち去った。
花音はその場に立ち尽くし、遠ざかる二人の背中を見つめていた。心臓の一部を無理やり抉り取られたような、息もできないほどの激痛が彼女を襲う。
オークションが終わる頃、外は冷たい雨が降り始めていた。
花音は会場の出口に独り佇み、碧斗の黒いマイバッハが彩葉を乗せて、夜の闇へと無情に走り去るのをただ見送った。
人里離れた立地のせいで、三十分待ってもタクシーの一台すら捕まらない。結局、彼女は降りしきる雨の中を独り、家路を辿るしかなかった。
ようやく家に辿り着いた頃には、足の感覚はとうに失われていた。
玄関でヒールを脱ぐと、潰れた血豆がストッキングにべったりと張り付いている。それを無理やり引き剥がそうとする時、刺すような激痛が走り、彼女は思わず息を呑んだ。
花音はそのままソファに身を投げ出し、ぼんやりと天井を見つめた。
不意に、数年前の雨の夜を思い出す。碧斗は、怪我をした彼女を背負い、三キロもの道のりを歩いて病院まで運んでくれた。
当時の彼は、タクシーを呼ぶ金さえないほど貧しかった。けれど、彼女を一歩も歩かせまいと頑なに拒んだ。
「花音、あと少しだ。すぐに着くからな」
あの時の彼の背中はあんなにも温かかった。雨に打たれながらも、彼女は幸せすら感じていたというのに。
今はどうだろう。数億円もする高級車を乗り回しながら、彼は彼女を五分待つことさえ拒んだのだ。
手当てを済ませると、花音は逃げるように布団の中へ身を隠した。
最近の出来事を深く考える勇気はなかった。ふとした瞬間に記憶の蓋が開けば、やるせないほどの惨めさと痛みが、濁流のように押し寄せてくるからだ。
誰も知らない。彼女が本当に求めていたのは、高橋グループの御曹司としての碧斗ではない。
彼女がただ欲しかったのは、あのアパートで肩を寄せ合い、優しく名前を呼んでくれた、あの頃の碧斗だけだった。
けれど、あの男はもう「死んでしまった」。二度と、帰ってはこない。
彼女はそっと瞳を閉じ、溢れ出す涙を拭うことさえ忘れて、深い闇の中へと沈んでいった。
翌日の正午、ドアの開閉音で彼女は目を覚ました。
枕元には、スーツを纏った碧斗が立っていた。
「今夜は親族の会食がある。お前も一緒に来い」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
R96009- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。