忘れた恋、届かぬ手のひらの君第3話
この話は約1686字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
彼は言った。
「俺の知尋がこの先もずっと無事で、健やかでいられますように」
それなのに今、彼は他人のために、自らの手で私の心臓から血を奪っている。
お守りを麻里奈の手に押し付け、私は背を向けて病室を出た。
突然、後ろから男の手が伸びてきて私を掴み、階段の踊り場へと引き戻した。
修平の顔は険しい。
「どうして俺のお守りを他人に渡したんだ?」
私は冷ややかに答えた。
「あなた自身が彼女のものになったのに、お守りなんてどうでもいいじゃない」
修平は私を壁際に追い詰め、抱きすくめた。息苦しいほどに強く。
「あれはお前の無事を祈るためのものだ。どうして勝手に人に渡せるんだ?」
私は笑った。
「修平、今の私が『無事』に見える?」
修平は言葉を失い、立ち尽くした。
徐々に拘束を緩め、長い沈黙の後、口を開いた。
「知尋、これで最後にする。
麻里奈には借りがあるんだ。彼女の体が良くなったら、俺たちは結婚しよう。ね?」
またその言葉。
彼がそう言うのを、何度聞いたか数え切れない。
私もかつては、麻里奈さえ良くなれば昔に戻れると信じていた。
でも今日、彼は自分の口で言った。100回目が終わったら麻里奈と結婚すると。
私は笑って首を振り、何か言おうとした。
その瞬間、全身を激痛が貫いた。
目の前が真っ暗になり、意識が遠のいていく。
意識が途切れる最後の瞬間、修平の慌てふためく涙を感じた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。意識が戻った。
耳元で修平の心配そうな声がする。
「知尋、大丈夫か?」
彼は私の手をきつく握りしめ、少し緊張しているように震えている。
私は答えず、ただ起き上がろうとした。
修平は私を抱き寄せ、額にキスをした。
反射的に身をよじると、さらに強く抱きしめられる。
「知尋、もうお前を失うかと思った」
その切実な声に、少し心が揺らぐ。
抱き締め返そうと手を伸ばしかけた。
その瞬間、彼は私を離した。
私の手が触れたのは、修平の体ではなく、一枚の紙だった。
心臓移植の同意書。
状況が飲み込めずにいると、修平が言った。
「知尋、心臓を麻里奈に移植してやってくれないか」
ベッドの上で体が固まる。信じられなかった。
修平は再び私を抱き寄せた。
「心臓を移植すれば、もう血を提供しなくて済む。
手術が終わったら、結婚しよう。いいだろう?」
懇願するような口調。久しぶりに聞く優しい声。
けれど今、私は全身が凍りつくような寒気を感じていた。
初めて、彼がまったくの他人のように思えた。
乾いた笑いを漏らし、彼に尋ねる。
「何を言っているのか、分かってるの?」
修平は黙り込み、ただ私を抱きしめ続けた。
「知尋は自己治癒できるだろう?でも、麻里奈は違うんだ」
ふと、自分が滑稽に思えてきた。
時空を超えてまで守りたかった人が、今、私に死ねと言っている。
全身の力で修平を突き飛ばした。
笑顔を向けたまま、涙が頬を伝う。
お守りを手放した瞬間から、生命力が流れ出していくのを感じていた。
少なくとも、修平にわずかばかりの情が残っていると思っていた。
まさか、彼の唯一の心配事が麻里奈のためだったなんて。
私はテーブルの上のフルーツナイフを手に取り、心臓に当てた。
もう修平の死ぬ運命を変えようなんて思わない。
彼と結婚したいとも思わない。
ただ家に帰りたい。この世界から永遠に去りたい。
「知尋、癇癪を起こすな」
私の抵抗が、彼の神経を逆撫でしたようだ。
修平は私が死ぬなんて微塵も思っていない。
心臓の血を抜く時は、いつも彼自身の手で行ってきたのだから。
今回もまた、私が生き返ると思っている。
でも、もう無理よ。
100回目だもの。もう家に帰るの。
顔の涙を拭い、覚悟を決めた。
ナイフを心臓に突き立てた。一瞬、激痛が走った。
刺した瞬間、ふいに視力が戻った。
修平の冷ややかな表情が見える。
笑みがこぼれた。ああ、彼はこれほどまでに私をどうでもいいと思っているのか。
さらに深くナイフを押し込み、最後の力を振り絞って言った。
「修平、もう二度とあなたには会わない」
修平はその場に立ち尽くし、目を見開いて私の行動を凝視していた。
瞳孔が急激に収縮し、呼吸まで荒くなった。
いつも冷静な男の目が、今は真っ赤に充血していた。
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