心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った第2話
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翌朝、看護師が私の処置をしに来たとき、母がスープジャーを持って病室に入ってきた。
懐かしい匂いがして、私は思わず目を瞬かせた。
心不全と診断されてから、私は何を食べても吐いてしまうようになった。
そんな私のために、母は毎日、味を変えながら栄養食を作ってくれた。
あの頃、母はベッドのそばに座り、一口ずつ私に食べさせながら、目を赤くして言っていた。
「栞が元気になれるなら、自分の寿命を十年縮めてもいい」
でも今は、母からあんなに心に響く言葉を聞くことは、もう二度とない。
「陽菜のお守り、ここにない?」
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「ないよ」
「そんなはずないでしょ?昨日、陽菜はここに来た後、帰ってからお守りがないことに気づいたって言ってるの」
母は私の言葉を信じず、引き出しを次々と開けていった。
薬のケースや検査結果の書類、そして子供の頃の私の写真まで、母は無造作に脇へ寄せていった。
その中の薬瓶の一本が床に落ち、ベッドの下へ転がっていった。
私はベッドの縁に手をつき、拾おうと身を乗り出したが、目の前が突然真っ暗になり、危うく倒れそうになった。
母はそれを見ると、眉をひそめた。
「昨日、先生はもう助かったって言ってたじゃないの?
どうしてまだそんなに弱ってるの?」
私は顔を上げて、母を見た。
そうか。母にとっては、救急処置で助かったのなら、もう大丈夫なのだ。
これまで、私が手術室から生きて戻るたび、彼らは次もきっと同じように助かるのだと思っていた。
「お母さん、私、もう1か月も生きられないかもしれない」
母の手が止まった。
けれどすぐに、何事もなかったかのようにクローゼットの扉を閉めた。
「先生って、いつも一番悪い可能性から話すものなのよ。
あなたが18歳のときも、危ない状態だって言われたじゃない?それでも今まで生きてこられたでしょ?」
母はスープジャーのふたを開け、スープを器に注いだ。
私は心のどこかで、馬鹿みたいな期待をしてしまった。
けれど次の瞬間、母はその器を手に取り、病室を出ていこうとした。
「陽菜はね、今日はあんまり食欲がないみたいなの。せっかく時間をかけて作ったんだから、少しでも飲んでもらわないとね。
栞も飲みたいなら、あとお手伝いさんに持って来てもらうから」
ドアが閉まったあと、私は誰もいない病室で、しばらくぼんやりと座っていた。
ベッドの下へ転がり込んだ薬瓶は、結局、看護師が拾ってくれた。
私の顔色が悪いのを見て、看護師は温かい牛乳を一杯用意してくれた。
「どうしてご家族に付き添ってもらわないの?」
私は目を伏せた。
「みんな、忙しいからね」
陽菜の入院手続きに忙しくて、手術後のリハビリ施設を探すのに忙しい。
そして、陽菜が元気になったあとの人生を、あれこれ思い描くのにも忙しいのだ。
午後、私の個室に突然、数人のスタッフがやってきた。
彼らは何も言わずに私の荷物を片づけ始めた。
私はそのうちの一人を呼び止めた。
「何をしてるんですか?」
「篠宮恒一様から、病室を移るように頼まれています」
話を聞きつけた看護師長が駆けつけてきて、どこか気まずそうな顔をしていた。
「小林さんは手術前ですから、できるだけ安静にしておく必要があるんですが、上の階には空いている個室がなくて……
それで、お父様が栞さんは大部屋でも構わないとおっしゃっていて」
私の荷物は2つの段ボールに詰め込まれた。
そのとき、荷物の中から1枚の家族写真が床に滑り落ちた。
それは、私が15歳の誕生日に撮った写真だった。
あの頃、陽菜がこの家に来て間もなく、おずおずと一番端に立っていた。
母は私を抱き、父と兄は左右から私の頭にバースデーハットをかぶせてくれた。
あれが、私を中心に撮られた最後の家族写真だった。
スタッフが車椅子を押して私を移動させていると、ちょうど陽菜の新しい病室の前を通りかかった。
ドアにはピンク色の風船がたくさん飾られていた。
父は陽菜のためにプロジェクターの位置を調整し、母は花を一本ずつ花瓶に生けていた。
そこへ兄が外から戻ってきた。手には、陽菜が一番好きなケーキを持っていた。
私を見ると、兄の足が一瞬止まった。
「どうしてベッドから降りたんだ?」
私は、自分のすべてが詰め込まれた段ボール箱に目をやった。
「病室、移ることになってね」
兄は今になってそのことを思い出したように、一瞬、気まずそうな表情を浮かべた。
「陽菜は手術前になると不安になりやすいからね、静かな環境で過ごしたほうがいい
お前は体が弱いから、大部屋のほうが看護師にもすぐ対応してもらえるし」
私は何も言わなかった。
すると、陽菜が病室の中から顔を出した。
「お姉ちゃん、だったらやっぱり、ここに泊まっていいよ」
そう言いながら、陽菜は母の腕にぎゅっとしがみついていた。
母はすぐに彼女をなだめるように言った。
「変なこと言わないの。これはお父さんが決めたことだから」
兄も私に視線を向け、釘を刺すような口調で言った。
「栞、移植の機会はもう陽菜に譲ったんだろ。こんな些細なことで陽菜を不安にさせるな」
――そうか。私の病室なんて、些細なことなのか。私の命も、そうだったね。
私は6人部屋の、入口に一番近いベッドに案内された。
隣の患者の家族が、私に付き添いがいないことに気づくと、親切にもシーツを敷いてくれた。
夜の9時、陽菜がSNSに投稿した。
写真には、ケーキを囲んだ4人の家族が写っている。
兄が自ら陽菜の頭にバースデーハットをかぶせ、両親は笑いながら願い事をするよう促している。
投稿には、こう書かれていた。
【私がここに来てから2回目の誕生日を先に祝い。これからは毎年、みんなで一緒に過ごそうね】
私は写真を拡大した。
テーブルの上にあるケーキは、私が一番好きな塩キャラメルチーズ味だった。
その隣には、星のブレスレットまで置かれていた。
半月ほど前、兄が今年の誕生日プレゼントは何が欲しいかと聞いてきたとき、私はそのブレスレットの写真を送ったんだ。
兄から返ってきたのは、たった一言だった。
【子供っぽい】
――そうか。子供っぽかったわけじゃない。彼らはただ、こんなものが私なんかにふさわしくないと思っていただけなのだ。
ほどなくして、兄からメッセージでスマホが鳴った。
【陽菜が、そのブレスレットはお前が欲しがってたものだって言ってた。しかし陽菜もすごく気に入ったみたいだから彼女にあげた。これで彼女に詰め寄ったりするなよ】
私はしばらく画面を見つめたあと、一言だけ返した。
【わかった】
どうせ私が死んだら、家にある私のものは全部、陽菜のものになる。
早かろうが遅かろうが、何が違うっていうんだろう。
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