心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った第1話
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心不全と診断され、私・篠宮栞(しのみや しおり)と養妹・小林陽菜(こばやし ひな)は同時に入院した。
けれど、私たち二人に適合する心臓は、たった一つしかなかった。
その移植の機会をめぐって、私と陽菜は3か月もの間、争い続けた。
病院の廊下で、両親の不公平な扱いを問い詰める私の姿を映した動画も、いつの間にかネットで拡散されていた。
誰もが私を、自分が生き延びるためなら家族の情さえ顧みない、身勝手で非情な女だと罵った。
手術の日程が決まった前日、兄の篠宮湊(しのみや みなと)が珍しく私の病室を訪ねてきた。
病室の入口に立つ兄の顔には、隠そうともしない苛立ちが浮かんでいた。
「陽菜はまだ20歳だ。これから人生が始まるんだぞ。
お前は昔から体が弱かっただろ。たとえ手術を受けても、あと何年生きられると思ってる?」
私が口を開くより先に、兄のスマホが鳴った。
電話の相手は陽菜だった。彼女は泣きながら、私がまだ移植の機会を譲ろうとしないのかと兄に尋ねていた。
兄は途端に声を和らげ、優しく陽菜をなだめた。
「大丈夫だよ。兄ちゃんがいるから。
陽菜のものは、誰にも奪わせない」
子供の頃、私が初めて心臓の発作を起こしたとき、兄は私を背負って3キロも走り、病院まで連れて行ってくれた。
あのとき、兄は私の手を握りながら、たとえ自分の命と引き換えにしてでも、絶対に生かしてみせると誓ってくれた。
それなのに今、見慣れているはずの彼どこか他人のように見えた。
そんな兄を見つめながら、私はふと、もう争うのはやめようと思った。
「いいよ、兄ちゃん。
その心臓、もういらないよ」
* * *
私が移植の機会を諦めると言うと、病室には数秒間、静寂が落ちた。
最初に我に返ったのは兄だった。
彼は眉をひそめて私を見つめ、まるで私がまた何か企んでいるのではないかと疑っているようだった。
「本気で言ってる?」
私はうなずいた。
「本当だよ」
私がそう言うと、廊下の奥で待っていた母・篠宮美和(しのみや みわ)が早足に病室へ入ってきた。
ずっと外で話を聞いていたのだろう。目はまだ赤かったが、その顔には安堵の色が隠しきれていなかった。
「栞、ママは知ってたわ。あなたはやっぱりいい子だね」
母はベッドの端に腰を下ろし、私の手を取ろうとした。
私は無意識に手を引いた。
母の手が宙で止まり、その表情にはたちまち気まずさが浮かんだ。
父・篠宮恒一(しのみや こういち)は軽く咳払いをし、その場を取り繕うように口を開いた。
「決めたなら、もう後から気が変わったなんて言うな。
医者も、陽菜の体はもうこれ以上待たないと言っているから、移植の同意書は今日中にサインしたほうがいい」
最初から、書類まで用意してあったんだ。
分厚い書類の束が、私の目の前に置かれた。
その一番上にあったのは、「心臓移植候補者資格の自主的辞退に関する同意書」だった。
私はそこに記された「自主的」という文字を見つめ、ふと笑いたくなった。
この3か月、彼らは代わる代わる私を説得した。
母は、陽菜はまだ若いのだから、姉として私が譲るべきだと言った。
父は、たった一つの移植枠をめぐって家族が争っているなんて、世間に知られれば篠宮家の恥になると言った。
兄は、私の医療費を打ち切り、介助をしてくれていた人まで引き上げた。
それどころか、私が陽菜から生きるチャンスを奪おうとしているというネット上の声を、否定しようともしなかった。
そして今、ようやく私が折れた。
だから彼らは、私の気が変わらないうちに、すべてを決定的なものにしようとしていた。
私はペンを取り、一枚ずつ書類に署名していった。
兄はそばに立ったまま、じっと私の手元を見つめていた。
最後の書類に署名を書き終えた瞬間、彼の強張っていた表情がようやく緩んだ。
「それでいい」
書類を回収すると、兄はわずかに声を和らげた。
「陽菜の手術が終わったら、海外の病院も探してあげるから」
私はベッドの脇に置かれた病状説明書に目をやり、小さな声で尋ねた。
「もし、それまで待てなかったら?」
兄は一瞬、言葉に詰まった。
だが、答えるより先に、スマホから陽菜の弱々しい泣き声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……胸が、すごく痛いの……」
兄の表情が一瞬で変わった。そして、私の問いに答えることもなく、そのまま病室を飛び出していった。
父と母も慌ててその後を追った。
誰一人、振り返らなかった。
ましてや、モニターが突然けたたましい警報音を鳴らしたことにも、誰も気づかなかった。
当直の医者が駆け込んできたとき、私は痛みに耐えきれず、体を丸めていた。
処置が終わったあと、医者はベッドの脇に立ち、厳しい表情で言った。
「篠宮さん、今のあなたの心機能は、小林さんよりも低下しています。
そもそも今回の移植の機会は、病状の緊急性から、あなたが優先されていたものです。一度辞退すれば、次に適合するドナーが見つかるまで、あなたが待てるかどうか、誰にも保証はできません」
私は真っ白な天井を見つめながら、尋ねた。
「……あと、どれくらい生きられますか?」
医者はしばらく黙っていた。
「長く見積もって、一か月です」
突然、病室の外から歓声が上がった。
壁越しに、嬉しさのあまり泣き出した母の声がはっきりと聞こえてきた。
「陽菜、あなたのものになったわね!
助かるのよ!」
私は体を横に向け、顔を枕に埋めた。
今日は、私の24歳の誕生日だ。
両親も兄も、忘れていた。
そうね。今日は本当におめでたい一日だ。彼らは今日、ずっと欲しがっていたものを、ようやく手に入れた。
スマホが震えた。陽菜から写真が届いていた。
写真の中には、両親と兄に囲まれていた陽菜の姿だった。
青白い顔には、まるで勝者のような笑みが浮かんでいた。
【お姉ちゃん、生きるチャンスを私に譲ってくれてありがとう】
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