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心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った第3話

この話は約2536字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

6人部屋に移されて3日目、病院の会計窓口から電話がかかってきた。

預かり金の残高が不足しているという。

私は一瞬、言葉を失った。

これまで父が私の入院費として十分なお金を用意してくれていたからだ。

しかし、係員が確認したところ、残高は昨日の午後に引き出されたらしい。

私は父に電話をかけた。

長くコール音が続いたあと、ようやく父は電話に出た。

向こうからは、輸入の抗拒絶反応薬の価格について話し合う声が聞こえてきた。陽菜が時折何か言うと、父は丁寧に答えていた。

彼らの会話がひと段落してから、ようやく父は私がまだ電話の向こうにいることを思い出したようだった。

「私の入院費、引き出されたんだけど……」

父は気にする様子もなく言った。

「陽菜が術後に使う薬は保険適用外だから、ちょっとそっちから回しただけだ。

君は今、保存療法だろ。そんなにお金はかからない」

私は会計から届いた請求書をぎゅっと握りしめた。

「でも、先生は私、ICUに入る必要があるって……」

父は2秒ほど黙った。次に口を開いたとき、その声にはもう苛立ちが滲んでいた。

「栞、うちの金だって、湧いて出てくるわけじゃないんだぞ。

これまで君の治療に、いくらかかったと思ってる?自分でも分かってるだろ。

陽菜には、これが一度きりのチャンスなんだ。少しくらい分かってやれないのか?」

私にとっても、これが一度きりのチャンスなんだと言いたかった。

けれど、そのとき電話の向こうで、陽菜がふいに「お父さん」と呼んだ。

父はすぐに電話を切った。

結局、費用の支払いは医者が病院側に掛け合い、猶予してもらうことになった。

その日の夜、兄が病室にやってきた。

彼は入ってくるなり、1つのベルベットの箱をベッドの上に放り投げた。

「ブレスレットのこと、陽菜に何か言ったのか?」

私は箱を開けた。

あの星のブレスレットは、2つにちぎれていた。

「お前が欲しがってたって知ったら、陽菜がどうしても外して返すって言って無理に外そうとして、そのときに壊しちまった」

兄の口調は、まるでわがままな子供を叱るようだった。

「栞、陽菜はもうすぐ手術なんだぞ。わざわざ罪悪感を抱えたまま手術を受けさせたいのか?」

私は彼を見つめながら、ふと、ひどく疲れた気持ちになった。

陽菜が涙をこぼせば、悪いのは決まって私だった。

私は箱を兄のほうへ押し返した。

「持って帰って。もういらない」

兄の顔がさらに曇った。

「また何を怒ってるんだ?」

「陽菜が元気だった頃は、お前に何一つ張り合ったことなんてなかっただろ。今は同じ心不全で苦しんでるんだぞ。少しくらい譲ってやれないのか?」

私は思わず笑った。

「私の両親も、兄も、病室も、入院費も、それに生きるチャンスまで、全部譲ったよ。

まだ足りないの?」

兄の顔から、さっと血の気が引いた。

周りの患者たちも、次々とこちらを振り向いた。

彼は声を潜めて、私を脅すように言った。

「まるで家族全員がお前に借りでもあるみたいな言い方をするな。

ここまで生きてこられたのだって、父さんと母さんと俺がいたからだろ。もし俺たちがいなかったら、お前は24歳まで生きられたと思う?」

その言葉が落ちたあと、病室は静まり返った。

私は見慣れた兄の顔を見つめながら、ふと7歳の頃を思い出した。

初めて発作を起こしたあの日、兄は私を背負って3キロも走ってくれた。

彼の背中にしがみつきながら泣いて、「もう二度と、兄ちゃんに迷惑をかけない」と言った。

すると兄は、目を赤くしながら「馬鹿なこと言うな」と叱った。

自分のたった一人の妹なんだから、迷惑なんかじゃないって言った。

それなのに、いつからだろう。私が1日長く生きることさえ、家族が私に与えてくれる恩恵になっていた。

兄も、自分の言葉がきつすぎたことに気づいたらしい。

彼は顔をそむけ、少しだけ口調を和らげた。

「陽菜の手術が無事に終われば、家族もお前のことをちゃんと面倒見られるようになるから。

ここまでずっと耐えてきたんだ。あと数日、我慢できないわけがないだろ」

また、「耐える」という言葉だ。

私が何度も痛みに耐えてきたから、彼らは私が決して倒れないと思っていた。

何度も手術台から目を覚ましてきたから、死ぬなんて、ただ人を怖がらせるための言葉にすぎないと思っていた。

兄が出ていったあと、私は切れたブレスレットをゴミ箱に捨てた。

翌日、看護師が採血に来たとき、私が血を吐き始めていることに気づいた。

医者は強く家族への連絡を求めたから、私は兄の電話番号を伝えた。

1回目、誰も出なかった。

2回目、直接切られた。

6回目になって、ようやく電話がつながった。

医者が私の状態を説明し終わらないうちに、兄が遮った。

「数日前まであんなに元気だったのに、急に悪化するわけがないでしょ。

今日は陽菜の術前検査があるんだから、どうしてもそっちを離れられません」

医者は怒りのあまり、声を荒らげた。

「篠宮栞さんの心機能は、すでに危険なレベルまで低下しています!彼女はいつ心原性ショックを起こしてもおかしくない!」

兄は一瞬、沈黙した。

「……すみませんが、先に彼女のことをお願いします。

陽菜の検査が終わり次第、すぐに向かいますので」

それから、夜が更けるまで待ち続けた。

深夜1時になって、ようやく兄がやってきたけど、私に会いに来たわけではなかった。

兄は私の棚から、銀色のお守りを取り出した。

それは、祖母が亡くなる前に私に残してくれたものだった。

兄は、明日の陽菜の手術に持たせて、無事を祈りたいのだと言った。

私は手を伸ばして箱を押さえた。

「これは、おばあちゃんが私に残してくれたものだよ」

兄は一瞬、戸惑った。

何もかも譲ってきた私が、まさか拒むとは思っていなかったのだろう。

「数日だけだ」

「やだ!」

「栞!」

兄の怒鳴り声が、病室中の患者を目覚めさせた。

私は必死にお守りを握りしめた。

しかし兄は、私の指を一本ずつ無理やりこじ開け、お守りを奪い取った。

「陽菜は明日、手術台に上がるんだぞ。そんなものも惜しいのか?

彼女が無事に終われば、ちゃんと返してやる」

箱の蓋が閉まった瞬間、私の爪が割れ、血が手のひらを伝ってぽたぽたと落ちた。

兄はそれを見たけど、ほんの一瞬足を止めただけだった。結局、そのお守りを持ったまま、病室を出ていった。

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