心に刻んだ名前第3話
この話は約1603字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
実は、昔は牛乳が大好きだった。学校に行くときも、母は毎朝「持って行きなさい」と牛乳を持たせてくれた。
でも、ある日。教室に入ると、智秀が私の席の机に腰かけていた。
その頃から彼はすでに背が高く、俯くと影が私をすっぽり包み込んだ。
周囲からクスクスと笑い声が聞こえる。誰かが言った。「ちょっと面白いことしようぜ、高田さん」
彼はにやりと笑い、掌を広げて私の前に差し出した。
私は、手に持っていた牛乳を差し出した。
彼がキャップをひねると、まだミルクの香りが漂う前に、白い液体が私の頭上から勢いよく降り注いだ。
鼻先、鎖骨、襟元、スカートの裾。
全身が牛乳まみれになった。誰もが笑っていた。泣いていたのは、私だけだった。
「ねえ、あの顔、誰を誘惑するつもり?」
「おいおい、高田さん、相変わらず悪趣味だな」
頬に、ざらついた親指が触れた。智秀は頬杖をつき、私を眺めていた。
彼は私の顎を指でつまみながら、しばらくじっと見つめていた。
それから、吐き捨てるように言った。
「ブサイクだな」
だから私は、牛乳が嫌いだ。
いや、きっと本当に嫌いなのは、智秀のほうなのだろう。
今日、二杯目の牛乳を床にぶちまけたとき、持ってきた使用人は、今にも泣き出しそうだった。
「お嬢様……お願いです、飲んでください……」
私は首を横に振り、拒絶した。ふと視線が、ソファの脇にある黒電話に留まった。
這うようにして電話のボタンを押した。この電話は、一つの番号にしか繋がらない。
けれど、今回出たのは智秀ではなかった。「橋本さん?」低く落ち着いた男の声。
運転手でもある、智秀の秘書だった。
「智秀を出して」
「今、会議中です。橋本さん……」
「なら、そっちに行くよ」
私は彼の言葉を聞く前に、一方的に電話を切った。
この屋敷は厳重なセキュリティが敷かれている。門には警備員が立ち、部外者の出入りは厳しく制限されている。
だが、私は顔を上げ、告げた。「智秀の会社へ行く」
それだけで、誰も私を止めなかった。
まるで、結婚が決まったことで、私は自由に出入りできる権利でも得たようだった。エレベーターが最上階に到達するまで、何も妨げるものはなかった。
ただ、会議室の扉に手をかけたとき、秘書が私を制した。
「橋本さん、こちらの休憩室でお待ちいただいて……」
けれど私は、一気に扉を押し開けた。
時々、自分でも分からなくなる。私は、一体何がしたいのだろう。
暗闇の中で、一人で沈むのが怖くて。だから、誰かを巻き込もうとしているのかもしれない。
あるいは、ただめちゃくちゃに振る舞って、自分自身の価値を地に落としたいだけなのかもしれない。
そうすれば、私はもう、救いなんて期待しなくて済むから。
会議室にいたのは、ほとんどが年配の男たちだった。
だからこそ、上座に座る智秀は、場違いなほど目立っていた。この空間で、彼の整った顔立ちは異質なほど際立っていた。
すべての視線が、私に注がれる。四十人以上の目。
不意に、寒気を覚えた。エアコンが効きすぎていたのだろうか。身体が震え始めた。
その瞬間。ふわりと、誰かの腕に抱え上げられた。煙草の匂いがした。彼から、煙草の匂いを感じたのは、初めてだった。冷たく、乾いた煙の香り。それはまるで、この男そのもののように、冷酷で、残酷な匂いだった。
「いつ来た?」
ついさっきまで、部下を叱責していたはずなのに。彼は一瞬で表情を変えた。
今、私に向けられる声は、まるで別人のように優しかった。
私の乱入によって、会議は強制的に中断された。
気づけば、私は彼のオフィスへと連れ込まれていた。
広い。この部屋は、まるで支配者の城のようだった。ガラス張りの窓からは、整然と並ぶ高層ビルが見渡せる。
遥か下を行き交う人々。その流れすらも、この部屋から見下ろせば、すべて手のひらの上にあるように思える。まるで、運命すらも操れるかのように。
まるで、虫けら一匹、指先で簡単に潰せるかのように。
たとえば、私のような存在。
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