心に刻んだ名前第2話
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でも、私は後部座席の広い車が好きじゃない。
中央の仕切りが上がれば、運転席からは何も見えなくなる。誰にも、後ろで私たちが何をしているのか分からない。
けれど、今日の智秀は、いつもより静かだった。
私がずっと震えていたからかもしれない。車内は十分に暖かくなっていたのに、それでも私は震え続けていた。
彼は私の反応を意に介さず、腕を伸ばし、私を抱き寄せた。
「結衣、そんなに怖いのか?」
低く囁く声が耳をくすぐる。分かっているくせに。私がこうなっている理由を、誰よりも知っているくせに。
「あとで、ウェディングドレスを選びに行こう。な?」
私は小さく震える身体を必死に抑え込んだ。けれど、笑いを堪えられなかった。
まさか、私を地獄へと突き落とした張本人が。
今になって優しい声で「ウェディングドレスを選びに行こう」だなんて。
智秀が私を連れてきたのは、あるプライベートヴィラの中にあるブライダルサロンだった。
シャンデリアの光がきらめき、マネキンに飾られたドレスを一層華やかに映し出している。
けれど、私は見る気も、選ぶ気もなかった。
智秀とデザイナーが、どんなデザインをオーダーメイドするか話し合っている。
アシスタントが私の体のサイズを測っている。
でも、私はそれよりも、店の裏庭のほうに興味があった。
彼らの会話をよそに、私は裾を持ち上げ、小さな庭へと向かった。
庭の奥には門があり、その先にはどこまでも自由が広がっているように思えた。
私は、何度も何度も逃げることを考えた。
けれど、いざ逃げる勇気を振り絞ったとき、どこへも行けない自分に気づいて、ただ絶望するばかりだった。
母は智秀との結婚を心から望んでいた。私の手を握り、「いい加減、わがままを言うのはやめなさい」と諭した。
私は小さな池のそばに腰を下ろし、ぼんやりと水面を眺めていた。やがて、智秀が話を終え、私を探しにやってきた。
「何を考えてる?」
彼はいつもそうだった。上から目線で、私に問いかける。
私は静かに、腕をまくった。
手首には、小さな赤い痕が残っていた。
丸い傷跡。その周りは、盛り上がった皮膚が硬くなっている。
「見て。あなたがつけた傷」そう言って、私は手首の傷跡を指さした。
あれは、高校の時。彼がいつものように不機嫌だった日、私を壁際に追い詰め、火のついたタバコの先を押し当てた。
痛かった。あまりに痛くて、その後の記憶はすべて霞んでいる。
智秀は、しばらく私の手首を見つめていた。そして、静かにしゃがみ込んだ。
私は認めたくなかった。それでも、智秀の顔は、確かに完璧だった。
まるで、古代ギリシャの彫刻家が作り上げたかのように、美しく整っている。
もし彼が優しい目で見つめれば、おそらく誰もがその深みに溺れてしまうだろう。
だからこそ、西洋の聖書にはこう書かれている。──悪魔は、人を惑わす一番美しい顔を持っている、と。
ライターの音とともに、炎が揺れた。彼は私の目の前で、静かにタバコに火をつけた。
私は反射的に肩をすくめる。また、タバコの火を押し付けられるのではないかと、思わず身をこわばらせた。
だが、次の瞬間。彼は何の躊躇もなく、その火を自分の手首に押し当てた。
ちょうど、私の傷と同じ場所に。
「少しは楽になったか?」彼は静かにそう言った。
私は言葉を失い、視線を落とした。揺れる煙と、肌に刻まれた新しい傷。
智秀がそっと、私を抱き寄せた。
「結衣……お前の痛みを、少しでも俺に分けてくれたらいいのに」
夏の夜の池のほとり。水面には月光がゆらめき、ほのかに蛍が舞っていた。私は月を見つめたまま、静かに言った。
「智秀……あなたは知っているでしょう?この痛みを私に与えたのが、ほかでもない、あなた自身だってこと」
彼の身体が、ほんのわずかに硬直した。そして、次の瞬間。彼はそっと、私の髪を撫でた。
「なら……俺に、償わせてくれ」
私は、何も答えなかった。
朝。
智秀が出かけた後、私はいつものように、手元のグラスを掴んだ。そして、テレビに向かって、それを投げつけた。
いつもなら、使用人たちが黙って新しいミルクを温め、私の前に差し出す。
けれど、今日の私はそれさえもいらなかった。
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