彼の愛は、私にだけ届かなかった第2話
この話は約2140字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
それ以上言い争う気力もなく、私は寝室に戻って眠った。
翌日は休みだったので、少し遅く目が覚めた。
まだまぶたも重いまま、リビングのほうから遠慮のない笑い声が聞こえてきた。
寝室のドアを開けると、照也が玄関で靴を履き替えているところだった。
額の髪は汗で湿り、スポーツジャケットのファスナーは開いたまま。
手には朝食の袋を二つ提げている。
美優は彼の後ろにいて、頬を赤くしながら笑った。
「今日は途中で走れなくなるかと思った」
照也は目を細めて彼女を見た。
「昨日また夜更かししたからだろ。明日は半周減らすか」
付き合って二年目の頃、私は一度、夕食のあとに彼と近所を散歩したいと言ったことがある。
彼は、時間がないと言った。
その後も何度か誘ってみた。
仕事で疲れている、家では静かにしていたい。
彼の答えはいつも同じだった。
けれど彼はもう三年も、毎朝一時間早く起きて、美優のランニングに付き合っている。
雨の日も、風の日も。
一日も欠かさずに。
私が出てきたことに気づくと、照也の動きが一瞬止まった。
「起きたのか?」
私は何も言わなかった。
彼は手に持っていた朝食の袋を軽く掲げた。
「朝飯、買ってきた。食べるか?」
見なくても、中身はわかった。
鮭おにぎりと海老カツサンド。
美優の大好物で、私にとっては重いアレルギーを起こすものだった。
初めてアレルギーで病院に運ばれたとき、照也は点滴が終わるまで付き添い、真剣な顔でスマホのメモに書き込んでいた。
それなのに次に彼が買ってきた朝食も、やっぱり鮭おにぎりと海老カツサンドだった。
それはきっと、彼と美優が二十年以上かけて体に刻み込んできた記憶なのだ。
私は急にひどく疲れた。
「照也」
彼が顔を上げる。
「どうして私が魚介アレルギーだって、いつも忘れるの?」
照也の笑みが、わずかに固まった。
美優はすぐに舌を出し、悪びれない可愛らしさで私を見た。
「枝里さん、ごめんなさい。私が照くんに、どうしてもこのお店のが食べたいってお願いしちゃったから、枝里さんの分を聞くのを忘れちゃったの。次は気をつけようね?」
照也はその流れに乗るようにうなずいた。
「ああ。次は別のを買ってくる」
また、次。
けれど彼らが朝のランニングをするようになってから、その「次」に、私が食べられる朝食を買ってきてくれたことは一度もなかった。
私はもう何も言わなかった。
美優は慣れた様子でバスルームへ向かった。
「照くん、先にシャワー借りるね。汗でベタベタ」
「行ってこい。タオルは新しいのに替えてある。いつもの場所だ」
いつもの場所。
バスルームの二段目の棚。
ピンク色のタオル、柑橘系のボディソープ、美優がいつも使っているボディミルク。
それらは、ずっと前からそこに置かれていた。
照也は普段、家のことなど何ひとつ気にしない。
トイレットペーパーが切れて三日たっても、補充することすら思い出さない。
それなのに、美優のものだけはいつもきちんと揃っている。
ここは、私と彼の家のはずだった。
なのに今、リビングに立っている私は、場違いな客のようだった。
胸の奥が息苦しい。
私は部屋に戻って服を着替え、バッグを持って外へ向かった。
照也がようやく顔を上げた。
「どこ行くんだ?」
「用事」
彼はそれ以上聞かず、美優のために黙々と食卓を整え始めた。
外に出て、風が頬に触れた瞬間、ようやく息ができた気がした。
今日はやることがたくさんあった。
ウェディングドレスの予約をキャンセルし、式場も取り消さなければならない。
ドレスショップに入ると、すぐにスタッフが出迎えてくれた。
「南沢様、本日は神崎様とご一緒ではないのですか?てっきりお二人でお越しになるものと思っておりました。
前回迷われていた二着、どちらもご用意できています。あとはご新郎様に見ていただいて、最後の一着をお決めいただくだけですね」
そこまで言って、彼女は私の後ろに誰もいないことに気づいた。
表情がわずかに曇る。
私は何でもないように笑った。
「今日はひとりで来ました。試着ではなく、キャンセルの手続きをお願いします」
スタッフの顔色は少し変わったが、結局それ以上は何も聞かなかった。
六回もドレスを試着しに来て、新郎が一度も姿を見せなかった花嫁など、そういるものではない。
最初のうちは、彼女も笑って取りなしてくれていた。
「神崎様はお仕事がお忙しいんですね」
けれど六回目になると、彼女はもう照也のことを口にしなくなった。
ただ静かにファスナーを上げ、裾を整えてくれるだけだった。
手続きが終わると、彼女は書類を差し出し、真剣な顔で言った。
「南沢様はお優しくて、とてもお綺麗です。きっと本当に大切にしてくださる方に出会えます」
私は一瞬、言葉に詰まった。
それから笑って、お礼を言った。
けれど店を出たとき、目の奥はやっぱり熱くなっていた。
照也に一度も会ったことのない人でさえ、彼が私にふさわしい相手ではないと気づくのに。
私はそれに気づくまで、五年もかかってしまった。
式場、撮影、装花をすべてキャンセルし終える頃には、空はもう暗くなりかけていた。
照也の母親から電話がかかってきた。
「枝里ちゃん、今夜うちにご飯を食べにいらっしゃい」
少し間を置いて、彼女は明るく付け加えた。
「照也と美優ちゃんはもう来ているの。あとはあなたを待つだけよ」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)