幾千の舟の涯てで第3話
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週末、乙音は静心寺(せいしんじ)を訪れた。
この寺のご利益は絶大だと聞き、羽生家の婚約者であるあの人のために祈願しようと思ったのだ。
かつては聡明で才気煥発な人だったが、交通事故で植物状態になり、五年もの間昏睡を続けている羽生瀬人。
今や彼と運命を共にする身となった以上、たとえ目を覚まさなくても、彼を支えていく覚悟でいた。一生涯、他の誰も選ばないと。
一歩一礼、額を石段に擦りつけながらひたすら祈りを捧げる乙音。しかし山腹に差し掛かった時、見知った顔に出くわした。
青野と善次──二人は膝から血を滲ませながらも、真ん中の美穂を挟むようにして、彼女が転ばぬよう気を配っていた。
三人は乙音と遭遇したことに驚きを隠せず、固まった。
美穂は涙ぐんだ声で首元の赤い紐を撫でながら呟いた。
「お姉さん……青野さんと善次兄さんが、どうしても私のために祈願したいって……」
乙音は返事もせず、ただ石段に額を付けて祈りを続ける。心の中で繰り返す。
どうか、私の夫が目を覚ますように。
どうか、この人が平穏に過ごせますように。
血まみれの膝に眉一つ動かさない乙音の姿に、三人は息を呑んだ。
善次はついに彼女の腕を掴み、「お前は生まれながらの箱入り娘だろうが!頂上まで一万段近くあるんだぞ?誰かの命を救われたわけでもないのに、そこまでする価値があるのか!」
乙音は嗤った。「美穂は二人の命の恩人なの?」
青野が反射的に言い返す。「美穂は……俺にとって特別だ」
十七歳の時、「佐藤青野は小嶺乙音だけを愛する」と告げた男が、今は別の女を「特別な人」と呼ぶ。
乙音は笑いながら頬を濡らした。「そうね。だから私が祈る人も、私の『特別』なのよ」
袖を払い、再び石段に跪く乙音。その背中に善次は複雑な表情で呟いた。「俺のために……?ならもういい。兄貴はお前に苦労させたくない」
青野も痛々しい視線を投げかけた。「乙音、やめろ」
彼女は無言で二人を一瞥し、はるか頂上を見据えて礼を続けた。
あまりの覚悟に、善次と青野は初めて美穂を置き去りにし、後を追った。
日が傾きかけた頃、ようやく頂上に辿り着いた乙音。膝の傷から血が滲む中、願いを書いた赤い布を御神木に結びつけた。
後から駆けつけた二人が布に記された「H.S」の文字を見た瞬間、顔色が変わる。
「こいつは誰だ……!」
青野が乙音の手首を掴んだ。怒りと焦りが瞳を歪ませた。
兄のためなら許せる。だがそれ以外の男の名前など──断じて認められない。
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