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幾千の舟の涯てで第1話

この話は約1928字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

「もう、私が嫁ぐわ!」

その言葉を口にした瞬間、小嶺乙音(こみね おとね)はふっと肩の荷が下りた。

耳元で両親の嬉しげな声が響く。「乙音、分かってくれて良かった。確かに……彼はまだ目を覚ましてないけど、だが相手の家柄が良くて、もし回復したら一族を背負う立場なの。その時はあなたも……」

実の娘に植物状態の男との結婚を勧め、しかも得した顔をする両親なんて、世界中探しても他にいないだろう。彼女は自嘲気味に笑う。「心配しないで。決めたからには後悔しないわ。あなたたちのお気に入りの養女である小嶺美穂(こみね みほ)を代わりに嫁がせたりしないから」

* * *

「何を言うの。あなたが実の娘なのよ。ただ……美穂(みほ)を手放すのは忍びないし、それに知ってるでしょう?善次(よしつぐ)も青野(あおの)君も美穂に夢中なんだから。彼女を嫁がせるなんて無理な話よ」

「羽生家はもう式の準備を始めてる。乙音、荷物をまとめて、半月後には北都へ迎えが来るわ」

小嶺乙音(こみね おとね)の両親はそっけなく告げ、電話を切った。

暗くなった携帯画面を見下ろし、小嶺乙音はテーブルの上の写真に目を移した。

両親、兄の善次、幼なじみの青野——ドレスにティアラ姿の自分を中心に囲み、皆が慈愛に満ちた笑顔を向けている。

当時、社交界では「小嶺乙音になりたい」が流行り言葉だった。

誰もが彼女を羨んだ。宝物のように溺愛する両親、妹を守るために命さえ惜しまない兄、そして自分一筋の幼なじみがいるから。

乙音も永遠にこの幸せが続くと信じていた。

十八歳の時、ある婚約の存在を知るまでは。

祖父が生前に決めた縁談だったが、乙音は青野と互いに想いを通わせていたため、成人したら破談にするつもりでいた。

しかし婚約者の羽生瀬人(はにゅう せと)が事故で植物状態に陥った。

約束を反故にすれば「信義を捨てた」と非難される。小嶺家は縁談を履行せざるを得なくなった。

だが十数年溺愛した娘を植物状態の男の世話にやるのは忍びない。途方に暮れていた小嶺家が思いついたのが、養女を探して身代わりに嫁がせることだった。

孤児院育ちで路頭に迷っていた美穂が小嶺家に迎えられる。

そして、罪悪感を抱いている小嶺家は美穂を寵愛し始めた。月一億の小遣い、兄が毎日贈る高級品、おさなじみの青野も彼女の望みを何でも叶えた。

乙音さえも、自分の全てを譲り渡した。

部屋を欲しがれば譲り、トロフィーを求めれば渡し、腎不全で腎臓を要求されても捧げた。

だが美穂の本性は卑劣だった。小嶺家に入ってからというもの、乙音を陥れる嘘や罠を繰り返し、たった五年で家族の愛情を全て奪い取った。

兄は美穂に、青野は美穂に、両親までが「美穂を嫁がせるのは忍びない」と乙音に婚約の履行を迫る。

「約束を破るつもりはない。ただ青野との約束と、実家から遠く離れたくない気持ちがあっただけ。でも皆が美穂を傍に置きたいなら——私が嫁ごう」

両親から告げられた日付を確認し、乙音は半月後のカレンダーに赤丸を描き「旅立ち」と記して階上へ向かった。

その瞬間、玄関が勢いよく開いた。

兄の善次と青野が入ってくると、乙音が反応するより早く階段へ押し倒した。

「あっ……!」

階段を転がり落ちた乙音の額が床に激突し、血が噴き出した。全身に走る激痛で冷や汗が滝のように流れるが、二人は助け起こそうともせずスマホで美穂とビデオ通話を始めた。

「美穂、見てたか?乙音を階段から突き落としたんだ。これで僕らにとってお前が大切だと分かっただろう?もう拗ねずに帰ってきてくれ」

血溜まりの中で聞いた言葉に、乙音の喉が軋んだ。視界が一瞬白く染まり、膝が砕けそうな虚脱感が押し寄せた。

突然の暴力の理由が、家出した美穂に「自分より大切だ」と証明するためだなんて……?

画面の向こうで美穂は泣き崩れていた。

「お兄ちゃん、青野さん……信じます。もう駄々を捏ねないから、すぐ帰る」

安堵のため息をついた二人は通話を切り、慌てて階下へ降りた。

「乙音、大丈夫か?美穂が不安がるから仕方なく……我慢してもらえるか?美穂が一人で外にいるなんて……本当に心配で。ごめん、後できっと……何とかするから」

声も出せない乙音を見て焦りだした二人だったが、再び美穂からの着信が鳴る。

「お兄ちゃん、青野さんごめん、迷子になっちゃった……帰り道が分からないの」

顔面蒼白になった二人は彼女を迎えに行こうとし、倒れた乙音を振り返って言った。

「乙音、自分で病院に行ってくれ。美穂が危ない」

遠ざかる背中を見ながら、乙音は最後の力を振り絞って119番した。

後頭部から流れる血が背中を真っ赤に染めていく。

意識が薄れていく中で、一つの決意だけが脳裏を掠める

——あと半月。

この街を出て、全ての縁を断ち切ろう。

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