帰る場所の違う私たち第2話
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過去の記憶から現実へと意識を引き戻し、実乃里は穏やかな声でゆっくりと言った。
「竜之介。あなたとの結婚を決めたのは、思いつきでもなければ、仕方なくでもないの。4年前に裕翔と別れた時から、私はもう彼を忘れると決めていた。だからそんなことはもう気にしないで」
電話の向こうからも、変わらぬ優しい声が返ってくる。
「わかった。こっちは実家で結婚式の準備を進めておくから、焦らなくていいよ。そっちの用事を片付けたら帰っておいで。待ってる」
実乃里は小さく頷き、通話を切った。
退職届を手に席へ戻ると、少しずつ業務の引き継ぎを始める。
帰宅した頃にはすっかり夜も更けていた。
心身ともに疲れ切っていた彼女は、シャワーを浴びるとそのままベッドへ倒れ込んだ。
だが横になった直後、スマホが鳴り出す。
通話に出ると、裕翔の声が聞こえてきた。
「奈々花が南の端にあるあの店の団子を食べたがってる。買ってホテルまで持って来い」
その一言で眠気は一気に吹き飛んだ。
あの店はここからかなり遠い。
今すぐ出発して買いに行き、さらにホテルへ届けるとなると、往復で4時間近くかかる。
しかし電話はすぐに切られた。
断る隙すら与えられない。
退職手続きは始まっているとはいえ、この一か月はまだ裕翔の秘書だ。
実乃里はため息をつき、観念して起き上がった。
着替えを済ませ、団子を買いに向かう。
4時間後。
指定されたホテルへ到着した頃には、団子はすっかり固くなっていた。
奈々花は器に軽く触れただけで、ひと口も食べないまま顔をしかめる。
「これ、冷めてカチカチじゃない......」
そう言うと、甘えるように裕翔を見上げた。
「ねえ裕翔、だったら街の東外れにあるあの有名なお店の大福を買ってきてもらったらどう?」
その言葉を聞いた裕翔は、すぐに実乃里へ視線を向けた。
「聞いたか。買ってこい」
断る余地はない。
彼女は疲れた身体を引きずりながら、再びホテルを後にした。
ようやく餅を買って戻ってきても、奈々花は一口かじっただけで嫌そうに脇へ放り出す。
「美味しくないわ。やっぱり北側のたこ焼きにして」
「これも違う。今度は西側のケーキを買ってきて」
そんな調子で何度も振り回され続けた。
ようやく奈々花のお気に召すものを見つけた時には、実乃里はほとんど限界だった。
ほっと息をつき、帰ろうとしたその時――
裕翔が彼女を呼び止めた。
その声にはどこか意味深な響きが混じっていた。
「待て」
彼はゆっくりと言う。
「コンドームを十数箱買って来い」
その言葉に、実乃里の顔色が一瞬で強張った。
しばらく沈黙した後、ようやく絞り出すように答える。
「......ホテルに置いてあるはずです」
「ホテルのは奈々花の好きな香りじゃない」
少し間を置いてから、彼は低く続けた。
「俺のサイズくらい、お前なら知っているだろう」
実乃里の顔から血の気が引いた。
これ以上ここにいれば、もっとひどい言葉を浴びせられるだけだ。
彼女は何も言わず踵を返した。
幸い、ホテルの近くにはコンビニがあった。
急いで買い揃え、再び部屋へ届ける。
だが、それでも裕翔は帰らせてくれなかった。
「外で待機していろ」
長時間振り回されたせいで、実乃里の顔には疲労が色濃く滲んでいた。
もはや言い争う気力も残っていない。
彼女は黙って部屋の外に立ち続けた。
扉の向こうからは、途切れることなく甘い囁き声や笑い声が漏れてくる。
疲れ切った意識がぼんやりと霞んでいく。
その時、彼女はふと遠い昔を思い出した。
あの小さなアパートで。
二人は抱き合い、口づけを交わし、恋人として当たり前の時間を重ねていた。
夜ごと彼の吐息は彼女の肌をなぞり、不器用で、それでいて甘く誘うような仕草に、彼女もまたそっと応えながら、彼を強く抱き締めていた。
けれど、それはもう過去の話だ。
あの日の出来事を境に、すべては変わってしまった。
今、彼の傍らで甘く寄り添う相手は、もう自分ではない。
M.Eに入社して以来、裕翔の恋人は次々と入れ替わってきた。
どの女性も3日と続かなかった。
だが奈々花だけは違う。
気づけば、もう一か月も彼の隣にいる。
同じ名家の令嬢で、誰が見てもお似合いの二人だ。
きっと今回は違うのだろう。
きっと彼女は、特別な存在なのだ。
そして自分は――
一か月後には故郷へ戻り、別の男性と結婚する。
だから願う。
これから先は、互いに過去を手放し、それぞれの幸せを見つけられますように。
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