帰る場所の違う私たち第1話
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M.Eグループ、人事部。
人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた実乃里に差し出した。
顔も上げないまま言う。
「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」
「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」
書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。
だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。
「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」
そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。
首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。
裕翔の執務室は最上階にある。
エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。
* * *
M.Eグループ、人事部。
人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた夏井実乃里(なつい みのり)に差し出した。
顔も上げないまま言う。
「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」
「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」
書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。
だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。
「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」
そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。
首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。
津島裕翔(つしま ゆうと)の執務室は最上階にある。
エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。
コンコン、とノックの音が響く。
実乃里は扉を開けた。
目に飛び込んできたのは、シャネル風のワンピースを着た女性が、スーツ姿の裕翔の膝の上に座り、熱く口づけを交わしている光景だった。
一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を平静に戻り、そのまま机の前まで歩み寄る。
「社長、こちらの......書類に、ご署名をお願いしたいのですが」
そこでようやく、絡み合っていた二人は彼女の存在に気づいた。
名残惜しそうに唇を離した後、実乃里はその女性の顔をはっきりと見た。
この一か月、社長室に頻繁に出入りしている人物。
長嶺グループの令嬢、長嶺奈々花(ながみね ななか)だった。
彼女は甘えるように裕翔へ身を寄せる。
「ハイヒールって本当に疲れるの。足が痛くてたまらないわ~」
「じゃあ誰かに揉ませようか」
裕翔は優しく応じた。
だが、その視線が実乃里へ向いた瞬間、目つきも声色も冷え切る。
「そこで突っ立って何をしている?早く奈々花の足を揉め」
「えっ?」
奈々花は口では遠慮がちに言った。
「それはさすがに......」
しかし、その顔には申し訳なさなど微塵も見えない。
実乃里も動かなかった。
彼女は裕翔の秘書だ。
だが、愛人の足を揉むことは職務内容には含まれていない。
微動だにしない彼女を見て、裕翔は何かを察したように鼻で笑った。
そして引き出しから札束を取り出し、そのまま彼女の顔へ叩きつけるように投げつけた。
咄嗟に顔を背けたものの、一枚の紙幣の縁が頬をかすめる。
瞬間、白い肌に赤い傷が走った。
「これだけあれば十分だろう?」
嫌悪に満ちた声が耳元に落ちる。
頬は焼けるように痛んだ。
何か言おうとして唇を動かしたが、結局言葉にはならない。
彼女は黙ってしゃがみ込み、奈々花の足を優しく揉み始めた。
どれほど時間が経っただろうか。
ようやく奈々花が微笑みながら足を引っ込めた。
「もういいわ。裕翔、カップル向けのフレンチレストランを予約してたでしょう?そろそろ時間よ」
「そうだな」
裕翔は甘やかな笑みを浮かべながら立ち上がり、彼女の手を取って部屋を出て行こうとする。
二人が去ろうとするのを見て、実乃里は慌てて退職届を手に追いかけた。
「津島社長!この書類にサインをお願いします!」
裕翔は眉をひそめ、内容を確認しようと書類へ手を伸ばす。
しかし奈々花が横からせがんだ。
「裕翔?早く行きましょう、お腹空いちゃった」
その言葉を聞くと、裕翔は深く考えもせず、書類の一番下に自分の名前を書き込んだ。
署名を終えると、そのまま振り返ることもなく執務室を後にする。
だからこそ彼は見なかった。
実乃里がようやく安堵の息を漏らしたことを。
――これで、ようやく裕翔のそばを離れられる。
ちょうどその時、スマホが鳴った。
通話に出ると、穏やかな男性の声が耳に届く。
「実乃里、結婚式の準備はもう進めているよ。あとどれくらいで戻ってこられる?」
実乃里は手にした退職届を見つめた。
「退職手続きは終わった。あと一か月だけ」
答えを聞いても、相手はすぐには電話を切らなかった。
しばらく沈黙した後、ためらうように口を開く。
「実乃里......俺と結婚するの、無理をしていないかな。だって君の元恋人は裕翔だったんだろう?彼がどれほど君を愛していたか、誰もが知っている」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
4年前。
彼女の恋人は、確かに裕翔だった。
まだ何者でもなかった彼と、狭い賃貸アパートで肩を寄せ合いながら暮らしていた。
大金をくれたわけではない。
だが、溢れるほどの愛をくれた。
彼と一緒にいると、果物はいつも食べやすく剥かれていた。
雨の日には必ず鞄の中に傘が入っていた。
小さなサプライズも絶えなかった。
幾度となく汗だくで愛し合った夜の後、彼は彼女を強く抱き締めて誓った。
必ずたくさん稼いで、実乃里を妻にする、と。
当時の彼はプロゲーマーを目指していた。
彼女との未来のためにゲームに集中し、睡眠時間は一日二時間ほど。
血を吐く寸前まで自分を追い込んでいた。
それなのに、彼が最も彼女を愛していたその時期に、別れを告げたのは実乃里の方だった。
あの夜は大雨だった。
自分を引き止める彼の指を一本、また一本と冷たく引き剥がしながら、彼女はその瞳に冷徹さを浮かべて言い放った。
「あなたについていっても、この狭いアパートで一生暮らすだけ。好きなワンピースひとつ買えなくて、何度も眺めては諦める生活にはもううんざりなの。お願いだから、もう私を解放して」
傘を差し、高級車へ乗り込む。
バックミラーには、よろめきながら車を追いかける彼の姿が映っていた。
――行かないでくれ。
愛している。もう少しだけ待ってくれ。
嗚咽混じりに何度も叫ぶ声が聞こえた。
彼女は車の中で涙を流し続けた。
それでも、一度も振り返らなかった。
なぜなら――
その頃の彼女は、癌を宣告されていたからだ。
ただでさえ苦しい生活だった。
そんな時に癌まで発覚した。
まだ治療可能な段階だったとはいえ、その医療費は彼を確実に押し潰してしまう。
彼の人生を壊したくなかった。
だから彼女は、自分を守るためではなく、彼を守るために彼を捨てた。
それが彼女なりの救いだった。
その後、彼女は海外へ渡った。
働きながら治療費を稼ぎ、最も苦しい時期には客の食べ残しで空腹をしのぎ、店の薄暗く湿った物置で眠った。
治療と再発を繰り返しながら、それでもなんとか命を繋ぎ留めた。
帰国後、高給取りの秘書職に応募し、採用された。
だが、その会社こそが裕翔の企業だった。
帰宅後に彼の名前を検索して初めて知った。
彼女が海外にいた4年間で、裕翔がゲームの配信活動からスタートし、人気プロゲーマーへと駆け上がり、その後は若き実業家として成功を収め、今や巨大なeスポーツ帝国を築き上げていたことを。
実乃里がいなくなったことで、彼は確かにより良い人生を手に入れた。
だが再会した時、彼の目にあったのは驚きと――憎しみだけだった。
彼は彼女を恨んでいた。
M.Eに入社してから、実乃里は彼の専属秘書になった。
執務室とは壁一枚隔てただけ。
周囲は最高のオフィスを与えられたと羨んだが、真実を知るのは彼女だけ。
それは裕翔の意図だった。
自分に見せつけるために。
3日ごとに変わる女たちが社長室へ出入りする姿を。
彼女たちと親密に過ごす姿を。
そして自分を呼びつけ、屈辱的な要求を突きつけるために。
断れば、今日と同じように札束を顔へ投げつけて言うのだ。
「これだけあれば十分だろう?」
彼はわざと彼女に見せつけていた。
他の女との親密さも、数々の嫌がらせも。
だがその一方で、深夜に泥酔すると、赤くなった目で彼女の家の前に立ち塞がり、首筋に額を押し当てながら震える声で問いかける。
「実乃里......お前には心というものがないのか」
裕翔が彼女を苦しめているのか、それとも自分自身を苦しめているのか。
実乃里には分からなかった。
ただ、その時思った。
どちらかが本当に落ち着ける場所を見つけなければ、この腐れ縁は終わらないのだと。
だから少し前、彼女は地元へ戻って紹介で会ってみた。
相手は高校時代の同級生、逢坂竜之介(おおさか りゅうのすけ)。
大富豪ではないが、堅実に生きる誠実な男性だ。
二人は気が合い、自然な流れで婚約を決めた。
結婚式は一か月後。
これからは、彼女は裕翔を解放する。
そして彼にも、自分を解放してほしかった。
人混みの向こう側で、もう二度と交わることなく、互いに何も負わないまま。
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