帰る場所の違う私たち第3話
この話は約2311字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
実乃里はホテルの部屋の外で、一晩中立ち続けた。
そして、一晩中聞き続けた。
うとうとと意識が遠のきかけた頃、不意に扉が内側から開かれる。
彼女は瞬時に目を覚ました。
顔を上げると、裕翔の腕に寄り添った奈々花が部屋から出てくるのが見えた。
二人はぴたりと身を寄せ合い、その様子は親密そのものだった。
どちらもバスローブ姿で、緩く開いた襟元からは無数のキスマークが覗いている。
昨夜がどれほど激しい夜だったのか、一目で分かるほどだった。
実乃里が二人を見たのと同時に、二人もまた、まだ外で待っていた彼女の姿に気づいた。
裕翔はじっと彼女を見据える。
「ずっといたのか?」
「はい」
一晩立ち続けた後だったが、実乃里はすでに感情を整理していた。
静かに首を横に振る。
その表情には、何の動揺も浮かんでいない。
だが、そんな反応は裕翔の気に入らなかったらしい。
彼は怒りを抑え込むように低く笑った。
「お前は本当に我慢強いな」
実乃里の表情は相変わらず穏やかなままだった。
確かに以前の自分は裕翔を忘れられなかった。
けれど今は違う。
もうすぐ結婚する身だ。
彼はただの上司でしかない。
上司の私生活など、自分には関係ない。
「他にご用件がなければ失礼します」
そう言って立ち去ろうとした瞬間、何が癇に障ったのか、裕翔の顔色がさらに険しくなった。
彼は一歩踏み出し、彼女の手首を乱暴に掴む。
力が強すぎて、指の関節が白くなるほどだった。
「誰がお前に帰れと言った?」
彼の声は冷たい。
「今夜は奈々花の誕生日だ。盛大なバースデーパーティーを手配しろ」
一睡もしていないまま、さらに大仕事を押しつけられる。
本来なら断るべきだった。反発してもよかった。
だが、今にも炎を噴きそうな彼の瞳を見つめた後、実乃里はほんの少し沈黙し、無感情にその仕事を引き受けた。
「承知しました」
あと29日。それさえ耐えれば、すべて終わる。
バタン、と大きな音を立てて扉が閉まった。
突然の音に肩を震わせながらも、実乃里には彼が何に怒っているのか分からなかった。
そのまま踵を返し、エレベーターへ向かう。
会場の手配、装飾、招待客への対応――
一日中走り回り、ようやくパーティーの準備を終えた。
そして夜。
パーティーが始まる。
最初に現れたのは、手を取り合った裕翔と奈々花だった。
二人はそのままフロアの中央へ進み、オープニングダンスを踊り始める。
耳元で囁き合いながら優雅に回り、一歩進めば一歩下がる。
息の合ったステップはまるで長年連れ添った恋人同士のようだった。
ダンスが終わると、続いてプレゼントの時間となる。
豪華な七段ケーキがワゴンに乗せられ、ゆっくりと会場へ運び込まれた。
裕翔は深い愛情を滲ませながら、用意していたプレゼントを取り出す。
それは見るからに高価なダイヤモンドネックレスだった。
ペンダントトップには丁寧に磨き上げられた蛍石があしらわれている。
深海を思わせる青緑色の輝きは、一目見ただけで人の心を奪った。
それを見た瞬間、会場から驚きの声が上がる。
「これって、この前謎の大富豪が何千万円も出して落札した『オーシャンハート』じゃないか?」
「まさか津島社長が落札していたなんて!」
「こんな高価なプレゼントを贈るなんて、本気なんだな」
「さっきのダンスを見た?あの優しい目つき。結婚も近そうだ」
会場がざわめく中、裕翔は奈々花の手を握ったまま前へ進み出た。
低く響く声がマイクを通して会場全体へ広がる。
「本日、もう一つ皆さんにご報告があります」
彼は少し間を置き、告げた。
「私と長嶺家の令嬢・奈々花は、婚約することになりました」
突然の発表だった。
しかし、誰も驚かなかった。
むしろ予想通りという空気が広がる。
会場の隅で静かに立つ実乃里は、並んで立つ二人を見つめていた。
その時――
気のせいだろうか。
婚約を発表した瞬間、裕翔の視線がこちらへ向いたような気がした。
だが次の瞬間には、その考えを振り払う。
きっと気のせいだ。
彼は自分を憎んでいる。
そんな彼が、自分を見るはずがない。
それ以上考えるのはやめた。
すでに裕翔と奈々花の周りには大勢の人が集まり、祝福の言葉が絶え間なく飛び交っている。
乾杯を求める客も次々と押し寄せてきた。
奈々花がグラスを手に取ろうとした時だった。
裕翔がその手を制する。
「酒は飲みすぎない方がいい」
そう言うと、彼は視線を実乃里へ向けた。
「奈々花は酒が飲めない。お前が代わりに飲め」
差し出されたグラスを見ても、実乃里は何も言わなかった。
ただ静かにグラスを受け取り、作り笑いを浮かべる。
そして中身を一気に飲み干した。
祝杯を勧める客は後を絶たない。
彼女は何十杯もの酒を飲まされ続けた。
胃は焼け付くように痛む。
それでも裕翔はわざと彼女を連れ回し、会場中を歩かせた。
吐いては戻り、戻ってはまた飲む。
そんなことを繰り返しながら、一時間以上が過ぎた。
ようやくパーティーは幕を閉じる。
客たちも徐々に帰っていった。
顔色を失った実乃里はスマホを取り出し、配車アプリでタクシーを呼ぼうとする。
その時、着信音が鳴る。
竜之介からのメッセージだった。
開いてみると、何枚もの写真が送られている。
ウェディングドレスの写真と、新居の写真。
続いて電話もかかってきた。
「実乃里、ウェディングドレスを何着か選んでみたんだ。どれが好き?それと新居だけど、この物件でどうかな?」
送られてきた写真に目を通す。
だが胃の痛みがひどく、まともに考える余裕がなかった。
彼女は小さな声で答える。
「どのドレスも素敵だと思うよ。新居も問題ないわ。私は特にこだわりはないから」
そう言い終えた瞬間――
背後から低く冷えた声が響いた。
「......新居?」
その声に、実乃里の身体がわずかに強張った。
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