崩れゆく七年間の夢第2話
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尚季の顔色が、瞬く間に曇った。
彼は箸を置き、真綾に向かって言った。
「真綾、先に帰ってくれ。また今度、ご馳走するから」
真綾は驚いた兎のように慌てて立ち上がり、おずおずとしずくを一瞥した。
「社長、奥様……それでは失礼いたします」
ドアが閉まった瞬間、ダイニングに辛うじて残っていた偽りの平和も、音を立てて砕け散った。
「しずく、いつまでそんなふて腐れた態度を取るつもりだ」
尚季は怒りを押し殺すように言った。
「真綾はただの部下だ。彼女の前であんなことを言って、どう思われるか考えなかったのか」
「ただの部下?不倫相手、の間違いでしょう」
しずくは冷ややかに笑った。
「きれいさっぱり別れたって言ってたくせに……あなた、私が馬鹿だとでも思ってるの?半年前、あなたの下で喘いでた女があの子だって、わからないとでも?」
尚季はしずくの手を取って握り、声を和らげた。
「半年前に、確かに真綾とは別れた。ただ、三か月前に人事部が彼女を採用して、能力が優秀だったから残しただけだ。今は本当に、上司と部下の関係だ。考えすぎるな」
しずくは尚季を見上げた。
「そう?じゃあ社長も大変ね。何千人もいる社員一人ひとりの好物まで覚えているなんて、本当にお疲れ様。
でも妻として、忠告しておくわ。自分の衛生には気をつけて。体液で感染る病気もあるから」
「もういい加減にしろ」
尚季は勢いよく立ち上がり、しずくを見下ろして睨みつけた。
「今の自分がどんな様か見てみろ。偏執的で、疑り深い。真綾はお前より、ずっと物分かりがいいぞ」
しずくは笑い、まだ平らな自分の腹を、そっと撫でた。
物分かりがいい。
確かにそうかもしれない。半年前、尚季の体の下で喘いでいた真綾は、とても「物分かりが良かった」。
しずくの沈黙は、尚季の怒りに最後の火を注いだ。
彼は苛立たしげにネクタイを緩めると、踵を返して大股で去っていった。ドアが凄まじい音を立てて閉められる。
世界は、再び静寂に包まれた。
しずくはテーブルいっぱいの料理を見つめ、胃が裏返るような吐き気に襲われた。
尚季の血を半分受け継いだこの子を、産むべきか否か。まだその答えの前で立ち尽くしているというのに。あの人はもう、別の女のもとへ、慰めと理解を求めに行ってしまった。
しずくはスマホを取り出し、病院に電話をかけた。
「もしもし。この間予約した手術を……三日後に早めていただきたいのですが」
……
翌日の夕方、尚季が帰宅した。
彼の手には紙袋がひとつ提げられており、そこには、しずくがいちばん好きなフランス菓子店のロゴが印刷されていた。
「しずく、昨日は言い過ぎた。気にしないでくれ」
尚季の顔には疲労の色が滲んでいたが、口調は柔らかかった。
箱を開けると、中にはしずくの好物、塩キャラメルミルクレープが入っていた。
慣れ親しんだ甘い香りが広がり、しずくの心は、思わず一瞬だけ緩んだ。
七年という歳月で積み重ねた想いは、骨の髄まで染み込み、断ち切ろうと決めて簡単に断ち切れるものではなかった。
しずくは尚季を見つめ、自分自身にも、そして彼にも、最後の機会を与えた。
「……真綾を、クビにしてくれる?」
その声は、かすれるほど小さかった。
尚季が浮かべかけていた穏やかな表情は、瞬時に凍りついた。
まるで、とんでもない冗談でも聞いたかのような顔だった。
「またそれか。こんなことで優秀な社員をクビにしたら、会社での俺の立場がなくなるだろ」
尚季は眉をひそめ、口調には再び苛立ちと非難が滲んだ。
「真綾は、女の子ひとりで、この大都会に身寄りもなく頑張ってるんだ。毎月高い家賃だって払わなきゃならない。しずく、もう少し物分かりよくなれないのか」
しずくは、ただ尚季を見つめていた。
彼は、他の女が都会で奮闘する大変さには心を痛めるくせに、しずくがかつて彼のために、愛してやまなかった絵画の道を諦め、海外の美術大学からのオファーさえ断ち、彼に尽くしてきたことなど、きれいさっぱり忘れている。
ふと、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。
どうやら、自分の苦しみは「理不尽」で、真綾の苦労は同情されるべき「大変さ」らしい。
しずくはもう何も言わず、ただ黙って、綺麗に包装された塩キャラメルミルクレープの箱を、少し向こうへ押しやった。
あの甘ったるい香りは、今となっては、ただ胸をむかつかせるだけだった。
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