崩れゆく七年間の夢第1話
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半年前、夫・椎名尚季(しいな なおき)が見知らぬ女を組み敷いている現場を目撃して以来、星野しずく(ほしの しずく)は重度の潔癖症を患っていた――彼に少しでも触れられると、吐き気を催すほど気持ちが悪くなるのだ。
広々とした新居は、それ以来、冷たい牢獄へと変わった。
この半年、尚季は彼女に合わせるため、何をするにも何度も消毒を繰り返さねばならなかった。
夜の営みでさえ、幾重にも予防の措置を施し、決められた時間を一秒たりとも超えてはならない。
少しでも時間を過ぎれば、しずくは吐き気に全身を震わせ、なりふり構わず彼を部屋から追い出した。
それでも尚季は、文句ひとつ口にしなかった。
「俺が悪かった。少しずつ、埋め合わせをしていくから……」
何事もないように半年が過ぎ、潔癖症の症状も和らいできたのではないかと感じ始めた頃、しずくは尚季と和解しようと考え始めていた。
だがその矢先、書斎の外から、声を潜めて愚痴をこぼす尚季の声が聞こえてきた。
「お前は経験してないから分からないんだ。果物を渡すのに手袋をつけさせられて、ソファに触れば消毒液で三度も拭かされる。もううんざりだ!」
* * *
「星野さん、あなたはもともとお体が強いほうではありません。
もしこのお子さんを堕ろしてしまえば、今後、妊娠が難しくなる可能性があります。それでも手術をお受けになりますか」
星野しずく(ほしの しずく)は、微塵の迷いも見せずに答えた。
「はい。一週間後で、手術の予約をお願いします」
通りすがりの妊婦たちは、なんて冷酷な人なのだろうと、ひそひそ声で囁き合った。しずくはただ口の端をわずかに吊り上げ、笑みともつかぬ表情を浮かべて病院を後にした。
半年前、夫・椎名尚季(しいな なおき)が見知らぬ女を組み敷いている現場を目撃して以来、しずくは重度の潔癖症を患っていた――彼に少しでも触れられると、吐き気を催すほど気持ちが悪くなるのだ。
広々とした新居は、それ以来、冷たい牢獄へと変わった。
この半年、尚季は彼女に合わせるため、何をするにも何度も消毒を繰り返さねばならなかった。
夜の営みでさえ、幾重にも予防の措置を施し、決められた時間を一秒たりとも超えてはならない。
少しでも時間を過ぎれば、しずくは吐き気に全身を震わせ、なりふり構わず彼を部屋から追い出した。
それでも尚季は、文句ひとつ口にしなかった。
「俺が悪かった。少しずつ、埋め合わせをしていくから……」
何事もないように半年が過ぎ、潔癖症の症状も和らいできたのではないかと感じ始めた頃、しずくは尚季と和解しようと考え始めていた。
だがその矢先、書斎の外から、声を潜めて愚痴をこぼす尚季の声が聞こえてきた。
「お前は経験してないから分からないんだ。果物を渡すのに手袋をつけさせられて、ソファに触れば消毒液で三度も拭かされる。
ベッドに入る前だって、三十分もバスルームで体を洗わされる始末だ。俺に触れたら、汚い病気がうつるとでも言いたいみたいに」
電話の向こうが何かを言ったのだろう。尚季は、鼻で笑うように冷たく息を吐いた。
「確かに、最初は俺が馬鹿な過ちを犯した。でも謝ったし、向こうとはとっくに切れてる。それなのに、いつまでも根に持って、俺を疫病神みたいに扱うんだ。
もううんざりだ、本当に。毎日が操り人形みたいで、何をするにも彼女の顔色を窺わなきゃならない。
……まだ愛してる。でもその愛も、あいつのあの神経質な様子で、すっかりすり減ってしまいそうだ」
世界から、すっと音が消えた。
ただ、「もううんざりだ」という言葉だけが、しずくの耳の奥で反響していた。
「神経質」――尚季は、自分のことをそう言ったのか。
しずくは視線を自分の手に落とした。清潔で、細く長い指。だが長いあいだ消毒液に晒されてきたせいで、病的なほど白く、指の腹はふやけて皺が寄っている。
こんな「神経質」な自分になったのは、一体誰のせいだというのか。
体調がもう少し良くなったら、妊娠のことを彼に告げ、過去はすべて水に流して、もう一度やり直そう――そんな未来さえ、思い描いていた。
今となっては、それもただの独りよがりに過ぎなかったのだ。
しずくは口の端を引きつらせたが、笑うことはできなかった。ただ心の底から冷気が這い上がり、全身が凍りついたように強張っていく。
ピンポーン――
不意に鳴り響いたドアベルが、家の静寂を切り裂いた。
しずくは歩み寄り、ドアを開ける。
ドアの外には、精緻な化粧を施した女が立っていた。仕立ての良いビジネススーツに身を包み、腕にファイルを抱え、穏やかでそつのない微笑を浮かべている。
「奥様、こんにちは。椎名社長の秘書をしております、白石真綾(しらいし まあや)と申します。緊急の書類をお届けに参りました」
しずくの瞳孔が、きゅっと収縮した。
その女だ。
半年前、尚季の体の下で、媚びるような眼差しを向け、乱れていたのは、紛れもなくその女だった。
笑わせてくれる。尚季の言う「とっくに切れた」とは、ただ場所を変えて、そばに置いただけのことだったのか。
真綾は、しずくの異変に気づいていないのか、完璧な微笑みを崩さない。
そのとき、書斎から尚季が姿を現した。玄関に立つ真綾を見ても、少しも驚いた様子はない。
「真綾、書類を」
彼はごく自然に書類を受け取ると、腕時計に目を落とした。
「ご苦労さま。ちょうど食事時だ。よかったら、一緒に食べていかないか」
しずくは何も言わず、黙って踵を返し、ダイニングへと戻った。
食卓には、三人を包む空気が凍りついたかのように張り詰めていた。
尚季はその重苦しさを和らげようとしたのか、骨をきれいに取り除いた魚の身を、真綾の皿に取り分けた。
「たくさん食べなさい。魚、好きだっただろう?お手伝いさんに頼んで作ってもらったんだ」
真綾は恐縮したように、しずくを一瞥し、小声で言った。
「ありがとうございます、社長。そんなにお気遣いいただかなくても……」
しずくの手の中で、箸がぴたりと止まった。
しずくは顔を上げ、尚季を見据える。声は穏やかだったが、そこには確かな棘が含まれていた。
「本当に部下思いなのね。白石さんが魚好きだなんてことまで、よく覚えているわ」
尚季の動きが止まり、眉間に、気づかれないほど微かな皺が寄った。
しずくはそれに気づかぬふりをして、ゆっくりと言葉を重ねる。
「そういえば、私、あなたの好きなものが何だったか忘れてしまったわ。この半年、消毒液と向き合ってばかりで、頭の働きも鈍ってしまって。
だって、もし消毒が不十分で、触れてはいけないものに触れてしまって、何か汚い病気でもうつされたら大変だものね」
しずくは一度言葉を切ると、強張った尚季の顔から、みるみる青ざめていく真綾の顔へと視線を移し、口元に氷のような笑みを浮かべた。
「そう思わない?椎名社長?」
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