山村の風と愛しい日常第1話
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「俺が一番後悔しているのは……結空と結婚するって約束した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまったことだ」
個室はしばらく静まり返っていたが、やがて友人の一人が口を開いた。「圭馬さん、なんでだよ。結空さんともう十二年も付き合ってるじゃないか」
「長すぎたからだ。長すぎて、結空への気持ちがただの慣れなのか、それとも愛情なのか、もう分からなくなってしまったんだ」
新井圭馬(あらい けいま)は酒を一口飲んだ。
「会社が倒産して一番どん底だった時、結空は俺を置いて勝手に出て行った。俺のそばにいてくれたのは美波だったんだ」
* * *
異動通知が出る一週間前、星野結空(ほしの ゆあ)は新井圭馬(あらい けいま)にサプライズを仕掛けようと、こっそり都心へ戻る新幹線に乗り込んだ。
雨の中を急いでバーに駆けつけると、個室のドアの外で、圭馬が友人たちに「これまでの人生で一番後悔していることは何か」と聞かれているのを耳にした。
「俺に言わせれば、圭馬さんの人生に後悔なんてあるわけない」
すぐさま別の声が同調した。「当たり前だろ!来週には結空さんも帰ってきて、めでたくゴールインなんだ。これ以上、圭馬さんに何の悔いがあるんだよ」
圭馬はしばらく黙り込んでいたが、やがてこう口にした。
「あるさ」
個室の中が一瞬にして静まり返る。
「俺が一番後悔しているのは……結空と結婚するって約束した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまったことだ」
個室はしばらく静まり返っていたが、やがて友人の一人が口を開いた。「圭馬さん、なんでだよ。結空さんともう12年も付き合ってるじゃないか」
「長すぎたからだ。長すぎて、結空への気持ちがただの慣れなのか、それとも愛情なのか、もう分からなくなってしまったんだ」
圭馬は酒を一口飲んだ。
「会社が潰れて、人生で一番どん底だった時、結空は俺を置いて勝手に出て行った。俺のそばにいてくれたのは美波だったんだ。
美波は『ちゃんとご飯食べてね』っていつもまめに連絡してくれたり、俺が胃を痛めた時は温かいうどんを作ってくれた。気分が沈んでいる時も、不器用ながら冗談を言って俺を笑わせてくれるんだ。
結空は俺を12年も待ってくれた。約束通り彼女とは結婚する。美波へのこの好意は胸の奥にしまって、これきりにするつもりだ」
ドアの外でそれを聞いていた結空は目頭がツンと熱くなるのを感じた。
吉川美波(よしかわ みなみ)は、結空が以前勤めていた病院の看護師だ。
三年前、圭馬は起業に失敗し、多額の借金を背負い込んだ。
当時、圭馬の父親である新井大輝(あらい だいき)も体調を崩し、圭馬は金銭的な重圧に押しつぶされそうになっていた。
そんな時、結空は偶然、病院が主催する僻地医療支援プロジェクトを知った。三年間の特別手当は二百万円だった。
結空はそのお金のために迷わず自ら志願し、最も辺鄙な山村へ医師として赴任した。
この三年間、彼女は雨漏りするお粗末な土壁の家に寝泊まりし、濁流に足を取られながら村人たちの診察に向かった。一日の歩数が二万歩を下回ることはないほど過酷な日々だった。
一番辛かった時期、圭馬とのビデオ通話だけが心の支えで、一ヶ月の通話料が一万円近くに達したこともあった。
圭馬は何度も彼女にこう告げていた。「結空、お前が帰ってきたら結婚しよう」
その後、彼は仕事に追われ、電話の回数も次第に減っていった。
彼女は自分が送ったそのお金で彼が再び立ち直ったのだと思っていた。
まさか、彼が一番誰かを必要としていた時期に、別の女が自分の空席を埋めていたなんて。
ゼロからやり直す彼に寄り添い、立ち直るのを励ましていたなんて。
結空は涙をこぼすまいと下唇を強く噛み締めた。
ちょうどその時、一人の人影が彼女のすぐ脇を通り抜け、真っ直ぐに個室のドアを押し開けた。
中から、「美波さん、どうしてここに?」という声が聞こえる。
圭馬のもう一人の友人が冗談めかして笑った。「そんなの決まってるだろ!結婚する前に、圭馬さんが彼女のことをみんなに正式に紹介するつもりなんだよ」
中に立つ美波は頬を赤らめた。「誤解だよ。SNSを見たら、圭馬が数日前に胃痛で入院したって書いてあったから、心配になって様子を見に来ただけなの。
ついでに、大輝さんの回復具合についても話そうと思って。
お邪魔じゃなかったかしら?」
友人が圭馬を小突いて、笑いながら代わりに答えた。「そんなわけない!美波さんが来てくれて、圭馬さん、大喜びだよ」
圭馬は軽く笑った。「からかうな、美波が恥ずかしがるよ」
その口調に滲む親密さと庇うような態度は誰の目にも明らかだった。
結空は心臓が握り潰されるように痛んだ。
圭馬は他人との距離感を厳格に保つ人間で、親しくない相手には見向きもしない。
だからこそ、今日彼が見せたあの露骨なまでの庇い立ては、美波が彼の心の中でどれほど大きな存在になっているかを如実に物語っていた。
彼を責めるべきなのだろうか。結空には分からなかった。
彼が人生のどん底にいた最も暗い時期、そばに寄り添い、彼を立ち直らせてくれる人がいた。それは、自分にとっても喜ぶべきことのはずだった。
でも、自分は?自分はこれからどうすればいいのだろう……
結空がそんなとりとめもない考えに耽っていると、突然個室のドアが開け放たれ、反応する間もなく、結空は圭馬と真っ正面から視線を交わすことになった。
全員が、まさかここで結空に出くわすとは思っていなかったようで、一瞬呆気にとられた。
先に我に返ったのは圭馬の仲間だった。慌ててその場を取り繕うように言った。「結空さん、いつからそこにいたんだ?俺たち、ちょっと飲みすぎてバカなこと言ってただけだからさ、誤解しないでくれ!」
圭馬の目にも明らかな動揺が走り、低い声で何かを言いかけた。「結空、俺……」
結空は深く息を吸い込み、何事もなかったかのように彼の言葉を遮った。「今着いたところ。次は飲みすぎないようにね、体に悪いから」
圭馬はホッと息をつき、彼女を隅に引き寄せると、コート越しにその体を抱きしめた。
「帰るなら教えてくれれば迎えに行ったのに。長旅、疲れただろ」
彼の手は温かかったが、結空にとってその温もりはかえって刃のように心を刺した。
彼女は最後の一縷の望みを抱いて尋ねた。「さっき……何を話していたの?」
圭馬は微笑んで答えた。「いつお前をお嫁にもらうかって……話してたんだ。
もう12年だ。そろそろ結婚しないとな」
これが二度目のチャンスだったにもかかわらず、圭馬はやはり嘘をつくことを選んだ。
結空は苦笑した。ああ、彼だってちゃんと分かっていたのね。もう12年も経ったんだって。
学生時代から社会人になり、倦怠期も乗り越えてきた。このまま一生、共に寄り添い合って生きていくのだと、結空は信じて疑わなかった。
それなのに、12年かけて積み上げてきた絆が、離れていたわずか三年の間に、こうもあっけなく崩れ去ってしまうなんて。
圭馬が口を開いたあの瞬間、結空はこんなことすら考えていた。もし彼が正直に真実を話してくれれば、許したかもしれないと。
圭馬が一番苦しんでいた時に、自分がそばにいられなかったのだから、誰かが彼に寄り添っていたとしても怒るつもりはなかった。
彼が心変わりしそうになったことも、理解できたはずだ。
でも、嘘だけはついてほしくなかった。
結空がさらに何かを聞こうとした時、少し離れた場所に立っていた美波が声を潜めて言った。「圭馬、もういいかしら?大輝さんの件だけど……」
圭馬はほとんど無意識のうちに、結空を抱きしめていた手をぱっと離した。
「結空、お前は先に帰って休んでてくれ。俺は病院にお父さんの様子を見に行ってくる。容体が落ち着いたら、結婚式のことを相談しよう」
そう言い残し、彼は背を向けて美波の方へ歩き出した。
美波の視線が結空に向けられ、小さな声で尋ねた。「こちらの方は……?」
数歩離れた場所から、圭馬が一瞬ためらった後、こう答えるのが結空の耳にはっきりと届いた。
「ただの友達だ」
ただの友達だ。
12年もの歳月を共にし、彼のために僻地で身を削るようにして働いた三年間の日々が、最終的には「ただの友達だ」という一言で片付けられてしまうなんて。
ついに涙が堰を切ったように溢れ出し、視界を滲ませた。
しばらくして、結空は震える手でスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。
「杉本院長、申し訳ありません。異動の申請……取り消していただけませんか。私、残りたいんです」
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