寝室に鍵をかけた日から第2話
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翌朝。
誠司は転げるようにして家を飛び出した。
靴も履かず、正気を失ったような様子で警察署へ駆け込み、当直の警察官を見つけるなり、その腕にすがりついた。
「助けてください……!昨夜、妻に……殺されかけたんです……!」
声は震え、言葉は途切れ途切れだった。
「暴力を……ひどい暴力を受けました……!」
三十分後。
警察官は、検視の医師を伴って我が家を訪れた。
誠司は警察官の背後に身を隠すように立ち、指先を震わせながら私を指した。
「この女です……!昨夜、一晩中……俺を……!」
叫びはもはや言葉になっていなかった。
私はアイボリー色の部屋着にエプロンを結び、切りたてのフルーツを盛った皿を手にしていた。
来訪者の姿を認めた瞬間、思わず息を呑む。目の縁が、ぱっと熱くなる。
「警察の方、どうなさったんですか?」
困惑を滲ませた声で、そう問いかける。
「うちの夫が……ひどく取り乱しているようで。何かあったんでしょうか……」
皿を置き、どうしていいかわからない様子で手を拭う。
夫の理不尽さに怯える、か弱い新妻。
その顔を、私は自然に作っていた。
「ご主人は、あなたから重大な暴行を受けたと訴えています」
応対していた警察官の口調も、慎重だった。誠司の錯乱ぶりは激しいが、目の前の私はとても加害者には見えなかった。
「見ればわかる!今すぐ身体を確認してくれ!」
誠司は自らシャツを乱暴に引きはがし、ズボンの裾まで捲り上げた。
「ほら……ここも、ここも……!骨が……内臓が……!」
検視医師が一歩前に出る。無言で手袋をはめ、淡々と身体を確かめ始めた。
一分。
五分。
十分。
時間が過ぎるにつれ、医師の眉間の皺だけが深くなる。
誠司の身体には、目立った痕はどこにもなかった。
骨折はおろか、打撲痕ひとつ見当たらない。
昨夜、打撲用の薬を塗っておいたせいで、むしろ血色がいいほどだった。
「……そんなはずがない!」
誠司は、傷ひとつない自分の身体を見下ろし、頭をかきむしりながら崩れ落ちた。
「本当に痛かったんだ……!骨の奥まで突き刺さるみたいな……!普通の殴り方じゃない……あいつは、急所を……!」
必死に言葉を重ねる。
警察官の目つきが、はっきりと変わった。
誠司を見る視線に、同情と困惑、そしてわずかな警戒が混じる。
「一ノ瀬さん」
警察官は落ち着いた声で告げた。
「事実と異なる通報は、虚偽申告として処罰の対象になります。
それに……お話の内容が、あまり現実的とは言えません」
手帳を閉じ、淡々とした口調のまま言葉を重ねた。
「夫婦間で口論になること自体は珍しくありませんが、警察の出動が必要な状況とは確認できません」
視線を誠司に戻す。
「経営者の方だと伺っていますが……過度なストレスで、記憶や感覚が混乱することもあります」
誠司は何を言っても信じてもらえず、焦りのあまりその場で地団駄を踏んだ。
「俺はおかしくなんかない!本当なんだ……!紗弥、頼むから……説明してくれ!」
私は小さく息を吐き、ふらつく誠司の肩に手を伸ばした。
ちょうどいいタイミングで、涙が頬を伝う。
「申し訳ありません……警察の方」
声を震わせ、頭を下げる。
「最近、会社の資金繰りが厳しくて……夫も限界なんです。意味の通らないことを口にすることが増えて……」
そっと誠司の肩を抱いた。
「私が、きちんと面倒を見ますので……」
警察官たちはそれ以上踏み込まず、静かに引き上げていった。
扉が閉まった、その瞬間。
誠司は、背骨を抜かれたみたいに、玄関にへたり込んだ。
怯えきった目で私を見上げ、身体は止まらずがくがくと震えている。
「……いったい、俺に何をしたんだ?」
私は答えず、くるりと背を向けて台所へ入った。
少しして、温めた牛乳を一杯持って戻る。
「あなた、朝から散々だったでしょう。牛乳でも飲んで、カルシウムを補いなさい」
誠司は必死に首を振り、手足を使って後ずさった。
「嫌だ……やめてくれ……飲みたくない……」
私の笑みが、すっと消える。
残ったのは、氷のように冷え切った目だけ。まるで、物言わぬ死体でも眺めるかのような色だった。
「――飲め」
たった一言。
誠司の身体がびくりと跳ね、スイッチを入れられたみたいに硬直する。
震える手でカップを受け取る。指先は、制御を失ったようにぶるぶると震えていた。
牛乳がこぼれて手の甲を焼いても、声ひとつ上げない。
ごく、ごく。
熱い牛乳を一気に流し込み、食道の奥がひりつく。
私はティッシュを抜き、しゃがみ込んで、口元に残った白い跡をやさしく拭った。
その指が、ふっと頸動脈の上をかすめる。
誠司は石のように固まり、息をすることさえ怖がった。
「いい子ね」
私は彼の頬を軽く叩く。
「今夜は早く帰ってきて。昨日の課題、まだ合格じゃないから」
少し間を置いて、続けた。
「逃げたり……あの女のところへ行ったりしたら……」
顔を寄せ、唇を近づける。
「本当の生き地獄が何か、身をもって教えてあげる」
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