和紙文寝室に鍵をかけた日から · 第2話設定≡

寝室に鍵をかけた日から第2話

この話は約1979字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

翌朝。

誠司は転げるようにして家を飛び出した。

靴も履かず、正気を失ったような様子で警察署へ駆け込み、当直の警察官を見つけるなり、その腕にすがりついた。

「助けてください……!昨夜、妻に……殺されかけたんです……!」

声は震え、言葉は途切れ途切れだった。

「暴力を……ひどい暴力を受けました……!」

三十分後。

警察官は、検視の医師を伴って我が家を訪れた。

誠司は警察官の背後に身を隠すように立ち、指先を震わせながら私を指した。

「この女です……!昨夜、一晩中……俺を……!」

叫びはもはや言葉になっていなかった。

私はアイボリー色の部屋着にエプロンを結び、切りたてのフルーツを盛った皿を手にしていた。

来訪者の姿を認めた瞬間、思わず息を呑む。目の縁が、ぱっと熱くなる。

「警察の方、どうなさったんですか?」

困惑を滲ませた声で、そう問いかける。

「うちの夫が……ひどく取り乱しているようで。何かあったんでしょうか……」

皿を置き、どうしていいかわからない様子で手を拭う。

夫の理不尽さに怯える、か弱い新妻。

その顔を、私は自然に作っていた。

「ご主人は、あなたから重大な暴行を受けたと訴えています」

応対していた警察官の口調も、慎重だった。誠司の錯乱ぶりは激しいが、目の前の私はとても加害者には見えなかった。

「見ればわかる!今すぐ身体を確認してくれ!」

誠司は自らシャツを乱暴に引きはがし、ズボンの裾まで捲り上げた。

「ほら……ここも、ここも……!骨が……内臓が……!」

検視医師が一歩前に出る。無言で手袋をはめ、淡々と身体を確かめ始めた。

一分。

五分。

十分。

時間が過ぎるにつれ、医師の眉間の皺だけが深くなる。

誠司の身体には、目立った痕はどこにもなかった。

骨折はおろか、打撲痕ひとつ見当たらない。

昨夜、打撲用の薬を塗っておいたせいで、むしろ血色がいいほどだった。

「……そんなはずがない!」

誠司は、傷ひとつない自分の身体を見下ろし、頭をかきむしりながら崩れ落ちた。

「本当に痛かったんだ……!骨の奥まで突き刺さるみたいな……!普通の殴り方じゃない……あいつは、急所を……!」

必死に言葉を重ねる。

警察官の目つきが、はっきりと変わった。

誠司を見る視線に、同情と困惑、そしてわずかな警戒が混じる。

「一ノ瀬さん」

警察官は落ち着いた声で告げた。

「事実と異なる通報は、虚偽申告として処罰の対象になります。

それに……お話の内容が、あまり現実的とは言えません」

手帳を閉じ、淡々とした口調のまま言葉を重ねた。

「夫婦間で口論になること自体は珍しくありませんが、警察の出動が必要な状況とは確認できません」

視線を誠司に戻す。

「経営者の方だと伺っていますが……過度なストレスで、記憶や感覚が混乱することもあります」

誠司は何を言っても信じてもらえず、焦りのあまりその場で地団駄を踏んだ。

「俺はおかしくなんかない!本当なんだ……!紗弥、頼むから……説明してくれ!」

私は小さく息を吐き、ふらつく誠司の肩に手を伸ばした。

ちょうどいいタイミングで、涙が頬を伝う。

「申し訳ありません……警察の方」

声を震わせ、頭を下げる。

「最近、会社の資金繰りが厳しくて……夫も限界なんです。意味の通らないことを口にすることが増えて……」

そっと誠司の肩を抱いた。

「私が、きちんと面倒を見ますので……」

警察官たちはそれ以上踏み込まず、静かに引き上げていった。

扉が閉まった、その瞬間。

誠司は、背骨を抜かれたみたいに、玄関にへたり込んだ。

怯えきった目で私を見上げ、身体は止まらずがくがくと震えている。

「……いったい、俺に何をしたんだ?」

私は答えず、くるりと背を向けて台所へ入った。

少しして、温めた牛乳を一杯持って戻る。

「あなた、朝から散々だったでしょう。牛乳でも飲んで、カルシウムを補いなさい」

誠司は必死に首を振り、手足を使って後ずさった。

「嫌だ……やめてくれ……飲みたくない……」

私の笑みが、すっと消える。

残ったのは、氷のように冷え切った目だけ。まるで、物言わぬ死体でも眺めるかのような色だった。

「――飲め」

たった一言。

誠司の身体がびくりと跳ね、スイッチを入れられたみたいに硬直する。

震える手でカップを受け取る。指先は、制御を失ったようにぶるぶると震えていた。

牛乳がこぼれて手の甲を焼いても、声ひとつ上げない。

ごく、ごく。

熱い牛乳を一気に流し込み、食道の奥がひりつく。

私はティッシュを抜き、しゃがみ込んで、口元に残った白い跡をやさしく拭った。

その指が、ふっと頸動脈の上をかすめる。

誠司は石のように固まり、息をすることさえ怖がった。

「いい子ね」

私は彼の頬を軽く叩く。

「今夜は早く帰ってきて。昨日の課題、まだ合格じゃないから」

少し間を置いて、続けた。

「逃げたり……あの女のところへ行ったりしたら……」

顔を寄せ、唇を近づける。

「本当の生き地獄が何か、身をもって教えてあげる」

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)