寝室に鍵をかけた日から第1話
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子どもにちゃんとした家庭を残したくて、私・一ノ瀬紗弥(いちのせ さや)は殺気を畳み、三年間、みじめな専業主婦を演じてきた。
夫・一ノ瀬誠司(いちのせ せいじ)が家に帰らない夜が続き、不穏な噂がいくつ耳に入ってきても、私は耐え、信じることを選んだ。
――あの日までは。
病気の娘・一ノ瀬美桜(いちのせ みお)を、誠司が白川瑠華(しらかわ るか)を庇うために突き飛ばした。その光景を、この目で見た瞬間。
恋に溺れていた私は死んだ。
目を覚ましたのは、名を聞くだけで裏の世界が震える――人間兵器と呼ばれていた存在だった。
離婚?
……冗談は、寝てから言え。
私は薄く笑い、後ろ手で寝室の鍵をかける。
「あなた、ちゃんと『話し合い』をしましょう」
その日から、誠司の悪夢が始まった。
顎を外され、脇腹の急所を叩かれ、関節技で完全に押さえ込まれても――
病院では「異常なし」。通報すれば「夫婦喧嘩」「被害妄想」で片づけられる。
青あざだらけで膝をついた誠司は、泣き叫んだ。
「頼む……離婚してくれ……財産は、全部放棄する……!」
私は手の甲についたハンドクリームを塗りながら、淡々と言った。「……気分次第ね。今日のレッスンは、まだ終わってないわ」
* * *
カチャリ。
寝室の錠が弾ける音が、静まり返った夜気の中で、やけに澄んで響いた。
一ノ瀬誠司(いちのせ せいじ)は鏡の前でネクタイを整えていたが、その音に気づくと、苛立ちを含んだ視線を鏡越しにこちらへ投げてきた。
「何で鍵なんか掛けるんだ。急ぎの用がある、どけ」
彼のスーツには、ついさっき泣きじゃくった拍子に、娘――一ノ瀬美桜(いちのせ みお)が擦りつけた鼻水が、まだ乾かずに残っている。
三十九度の熱にうなされながら、「パパ、抱っこ」と縋った――その痕だ。
それなのに彼は、白川瑠華(しらかわ るか)に会いに行く勝負服を皺にしたくないという理由で、朦朧とした美桜を乱暴に床へ突き倒した。
額がローテーブルにぶつかり、赤く腫れ上がった。
その瞬間、一ノ瀬紗弥(いちのせ さや)としての私は、確かに死んだ。
残ったのは、かつて「修羅」と呼ばれた女だった。
私は何も言わず、ただ腰に結んだエプロンをゆっくりと外す。
畳み、皺を撫で、きっちりとナイトテーブルの上に置いた。
まるで美術品に触れるかのように、指先の動きまで、異様なほどに優しかった。
誠司は振り返り、眉間に深い溝を刻む。
「紗弥、何の真似だ。美桜はもう病院に運ばれた。俺は仕事がある。いい加減にしろ」
仕事?
――瑠華のベッドの上で、仕事だと称して数十億規模の案件でも詰めに行くつもりだろう。
私は一歩踏み出し、彼の前に回り込んで扉を塞いだ。
誠司の堪忍袋が切れたのが、空気でわかった。彼は苛立ちを隠そうともせず、腕を振り上げ、私の頬を狙う。
「どけ!調子に乗るな。子ども一人まともに見られねえくせに、大事なスーツを汚しやがって!」
平手が風を裂き、一直線に迫ってくる。
この一撃は、前にも受けた。
「家庭のため」だとか、「我慢が大事」だとか。私は何度も飲み込み、やり過ごしてきた。
でも、今日は違う。
まぶたを持ち上げても、視界は静まり返ったままだ。感情は凪ぎ、ただ現実だけが輪郭を持って迫ってくる。
掌が頬まで、あと五センチ。
その刹那だった。
左手が稲妻のように走り、誠司の手首の急所を正確に捉える。
親指でツボを押さえ、流れのまま手首を下へと捻った。
バキッ。
骨がずれる、乾いた音。
「ああ――!」
悲鳴が喉を突き破る、その前に。私はついでに掴んだ彼のネクタイで、口を塞いだ。
彼がいちばん気に入っているエルメス。
瑠華から贈られたものだ。
右手で顎を掴み、無理やり口を開かせる。丸めたネクタイを押し込み、端だけを外に残した。
そして、足を上げる。
革靴のつま先が、正確に膝裏を射抜いた。
ドサッ。
誠司は両膝から崩れ落ち、無垢のフローリングに叩きつけられる。その鈍い音だけで、こちらの膝まで疼くほどだった。
目を剝き、冷汗にまみれ、喉の奥から「うぅ、うぅ」と呻く。
――抵抗する?
私は片手でうなじを押さえつけ、顔面を床にねじ伏せた。
もう片方の手は指を二本そろえ、肋骨の下、三センチほどの位置にそっと当てる。
痛覚が集まる急所のひとつ。
力はいらない。決まったリズムで、わずかに震わせるだけでいい。
誠司の身体は一瞬で反り返り、まるで熱い油に放り込まれたエビのように跳ねた。
激痛が全身を貫き、誠司の身体は制御を失って痙攣した。眼球がせり上がり、首筋には血管が浮き出て、くねくねと脈打っている。
なのに、この痛みは――診断書には残らない。
私はしゃがみ込み、彼の耳元へと顔を寄せた。
声だけは、恋人に囁くみたいに甘く落とす。
「ねえ、痛い?
さっき美桜を突き飛ばしたの……その手だったよね?」
ほんのわずか、圧を増す。
彼は白目を剝きかけ、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死にうなずいて許しを乞うた。
もう片方の手で、私を押しのけようとする。
私はその手も逆に取り、後ろへ折った。
――バキッ。
乾いた音とともに、肩が外れる。
誠司は床に崩れ落ち、泥のように力を失った。
私は手を離し、口の中のネクタイをゆっくりと引き抜く。
「や……やめろ……紗弥、お前……狂ってる……」
誠司は大きく息を吸い込み、声を震わせながら、怪物を見るような目で私を見上げた。
理解できないのだ。
いつも小さく縮こまり、ペットボトルの蓋ひとつ開けられなかった妻が、どうして突然、悪魔になるのか。
私は立ち上がり、見下ろした。
それから身を屈め、外れた手首と肩を掴む。
「我慢して。戻すと、ちょっと痛いから」
コキ。
コキ。
乾いた二つの音とともに、骨が正しい位置へ収まった。
手つきは専門家そのもので、病院の古参医師よりも手際がいい。
誠司は気を失いかけ、腕を抱えたまま壁際に縮こまり、ぶるぶると震えた。
――これで終わりだと、思った?
化粧台からハンドクリームを取り、少しだけ手の甲に出して、ゆっくり均す。
「怖がらないで。さっきのは、準備運動」
鏡の前で髪を整え、穏やかな笑みを作る。
「さあ、第一レッスン。尊重を覚えなさい。
服を脱いで、まっすぐ立って」
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