妊娠8ヶ月、警察官の夫に愛人扱いされた第1話
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柿本蒼汰(かきもと そうた)がようやく時間を作り、妊娠8ヶ月の私、柿本笙子(かきもと しょうこ)を初めて妊婦健診へ付き添ってくれた。
けれど、病院に足を踏み入れた途端、蒼汰の仕事用スマホがけたたましく鳴り響いた。
表示された発信者名を見た瞬間、普段は冷静な蒼汰の表情が、みるみるうちに強張った。
「笙子、急な呼び出しだ。国際指名手配犯がまた入国したらしい。俺は……悪い……」
焦りを隠せないまま、有無を言わせぬ命令のような口調で詫びると、蒼汰は足早に立ち去っていった。
その背中を乗せたオフロード車が勢いよく走り去るのを見つめながら、私は受診票を握りしめた。気づくと、紙は爪でぐしゃぐしゃになっていた。
大きなお腹を抱えたままタクシーを止めると、すぐに運転手に話しかけた。
「前の車を追ってください」
――国際指名手配犯だって?そんな嘘、よく思いついたものだ。
父がいる警視庁にさえ何の連絡も来ていないのに、ただの地方署の署長である蒼汰が、何をそんなに慌てる必要があるというのか。
いったい、どこの「お偉いさん」が、そんなに急いで彼を呼びつけたのか、この目で確かめてやる。
* * *
「夫が不倫をしているかもしれないんです」
私がそう言っただけで、事情を察したらしい運転手はアクセルを踏み込み、すぐに蒼汰の車へ追いついた。
蒼汰が誰に会いに行くのかは分からないが、胸騒ぎだけは、どうしても消えなかった。
やがて何度も角を曲がった末、車は彼がよく行きつけている料亭の前で止まった。
私は思わずほっと息をついた。
――ホテルじゃなくてよかった。
この料亭の隣には蒼汰が所属する警察署の職員宿舎があり、署の行事などでよく貸し切りにして利用されている。
蒼汰にも部屋が割り当てられている宿舎で、第一子を授かる前、私は数か月暮らしたことがある。あの頃、彼の同僚たちは皆、とても親切にしてくれたものだ。
今、料亭の前には高級車がずらりと並び、中からは賑やかな音が聞こえてくる。
――何か特別な日だったのだろうか。
そう思って中へ入ろうとした瞬間、料亭のスタッフに呼び止められた。
「申し訳ございませんが、本日は貸し切りのため、関係者以外の方はご入店いただけません」
私は少し驚きつつ、笑って答えた。
「さっき入ってきた柿本署長の妻です」
ところがスタッフは、露骨に見下すような目で私を見た。
「柿本署長の奥様は希美様です。すでにいらっしゃっております。
名乗るなら、もう少し下調べをしてからにしてください」
その一言で、全身が凍りついた。
塩瀬希美(しおせ のぞみ)、蒼汰が私のために見つけてきた血液提供者。
我に返ると、私は制止を振り切り、大きなお腹を抱えたまま料亭の中へ駆け込んだ。
広い宴会場には、着飾った名士や政財界の人々が集まり、あちこちで笑い声が響いている。
いつもは静かな暮らしを好む義母・柿本里香(かきもと りか)でさえ、今日は珍しく人々の輪を渡り歩き、愛想よく挨拶を交わしている。
そして、夫の蒼汰は子供を抱きながら離乳食を食べさせ、隣にいる小柄な女と幸せそうに笑い合っている。
その女は希美だ。
私は胸を大きな手で握り潰されたように苦しくなり、息ができなくなった。
涙が勝手にこぼれ落ちた。
第一子を妊娠していた頃、私が希少血液型だったせいで、出産を心配した蒼汰は全国を探し回り、血液提供者を見つけてくれた。
それは、当時まだ貧しかった学生の希美だった。
出産が終わったら彼女は別の場所へ移す、と蒼汰は言っていた。
けれど私は気の毒に思い、警察署で事務職として働けるよう手配し、サプリメントも蒼汰に託して届けてもらっていた。
まさか、その相手と不倫しているなんて。しかも、恐らく隣の宿舎の部屋で囲っているのだろう。
その宿舎は家族が住めるから、蒼汰は私と長くそこで暮らせるように、インテリアや家具まで丹念に整えてくれたのだ。
けれど、いつも通っている病院から遠かったため、私が妊娠すると蒼汰は心配し、病院の近くへ新しく家を買って引っ越した。
その結果、まさか宿舎の部屋は彼らが「夫婦」として暮らしている家になっていた。
子供まで生まれていた。
「柿本署長、おめでとうございます。奥さんは気立てがよく、今回はお子さんも誕生し、本当に順風満帆です」
副署長の妻・高橋綾(たかはし あや)は里香の手を取り、お世辞を並べた。
「やっぱり希美さんは幸せですね。署長のように奥さんを大切にする人と結婚できるなんて、うらやましいです」
里香は希美を見つめ、満足そうに目を細めた。
「希美ちゃんのような嫁を迎えられた蒼汰こそ、本当に幸せ者ですよ」
その言葉に続くように、蒼汰は人目も気にせず希美へ身を寄せ、耳元で何か囁いた。
希美は恥ずかしそうにはにかむと、グラスを掲げた。
「署内で蒼汰の立場に響くといけないと思って、これまで結婚を公表しなかったんです。皆さん、ごめんなさい。
今日はこの子の1歳の誕生日です。どうぞたくさん召し上がってください。披露宴の代わりだと思っていただけると嬉しいです」
場の空気はさらに和み、あちこちから祝福の声が飛び交っている。
「何をおっしゃっているのですか、奥様。こちらこそ、結婚のお祝いが遅くなり申し訳ございません」
「せっかくですから、署長と奥様のラブラブな姿を見せてください!たとえば、キスとか!」
蒼汰の部下たちが一斉にはやし立て、食事会は一気に盛り上がった。
希美は照れて遠慮する素振りを見せたが、蒼汰はその腰を抱き寄せ、腕を絡ませた。
キスしようとしたその瞬間。
蒼汰の目が、宴会場の入り口に立つ私を捉えた。
彼の顔から血の気が失せ、慌てて腕の中の希美を突き飛ばした。
「……笙子」
希美はバランスを崩し、テーブルにぶつかった。
私は涙を乱暴にぬぐい、大きなお腹を抱えたまま歩み寄った。
そして、渾身の力を込めて蒼汰の頬を打った。
パァン!
乾いた音が会場中に響き渡り、場は水を打ったように静まり返っている。
「蒼汰!」
希美が悲鳴を上げながら蒼汰をかばうと、次の瞬間、私に食ってかかった。
「あんた!よくも……」
パァン!
もう一発。
希美の頬はたちまち赤く腫れ上がり、よろめきながら蒼汰の胸へ倒れ込み、すすり泣いた。
私は痺れた手を軽く振った。
「笙子!お前……」
「柿本蒼汰!」
蒼汰の怒鳴る声を、私はさらに大きな声でかき消し、冷え切った目で彼を睨みつけた。
「これが、蒼汰の言う『国際指名手配犯』なの?」
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