夫が娘の心臓を奪った日第1話
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私、広中紗穂(ひろなか さほ)の娘・広中葵(ひろなか あおい)には、生まれつき心臓の病があった。
五年ものあいだ待ち続け、私はようやく、葵に適合する心臓を見つけた。
手術室に入る前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は目を赤くしながら、私に約束した。
「紗穂、安心してくれ。必ず俺の手で、葵を助けてみせる」
けれど、手術が半ばまで進んだところで、優一は何の説明も残さず、慌ただしく姿を消した。
嫌な予感に突き動かされ、私は足をもつれさせながら手術室へ飛び込んだ。
そこで目にしたのは、胸を開かれたまま、血に染まって横たわる葵の姿だった。
夫の助手の医師は、青ざめた顔で言葉を詰まらせた。
「広中先生が……葵ちゃんはまだ待てる、と。でも相川さんの息子さんは待てないからと、葵ちゃんに移植するはずだった心臓を持って出ていかれました……」
私はその場に崩れ落ち、震える手で何度も優一に電話をかけた。
けれど、葵の命が尽きるその瞬間まで、電話がつながることはなかった。
葵の遺体の処置を待つあいだ、私は優一のかつての教え子・相川律子(あいかわ りつこ)がSNSに上げた投稿を見てしまった。
【誤診だったみたい。大したことなくて本当によかった。せっかくだから、もう必要なくなったこれは、クロへのご褒美にしちゃおう】
動画の中で、律子の犬は、葵のものになるはずだった心臓に噛みつき、夢中で引き裂いていた。
冷たくなった葵を見つめた瞬間、私はようやく悟った。
もう優一を許す理由など、どこにも残っていないのだと。
そして優一がようやく、手術台の上に残した娘のことを思い出したとき。
彼を待っていたのは、がらんとした部屋と、小さな位牌だけだった。
* * *
私は広中紗穂(ひろなか さほ)。
二時間前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は、娘の広中葵(ひろなか あおい)を手術台に残したまま、相川律子(あいかわ りつこ)のもとへ駆けつけた。
律子は、夫がいつも私たち母娘より優先してきた女だった。
二時間後、私は医師から差し出された死亡診断書を受け取り、震える手で死亡届の欄に名前を書いた。
葵は霊安室へ移され、私はそのストレッチャーの横を、ただ黙ってついて歩いた。
そのときになって、ようやく優一から電話がかかってきた。
通話がつながった瞬間、耳をつんざくような音楽が鼓膜を打った。
向こうはひどく騒がしく、優一の声は信じられないほど明るかった。
「紗穂?なんでこんなに電話してきたんだ。葵が俺に会いたがってるんじゃ――」
「どうして葵を手術台に残して、途中で出ていったの!?」
私は奥歯を噛みしめ、叫ぶように彼の言葉を遮った。
「優一、約束したじゃない。あなたの手で、葵を助けてくれるって……!」
電話の向こうで、優一が息をのむ気配がした。
けれど次に返ってきた声は、まるで大したことではないとでも言うように、ひどく軽かった。
「紗穂、ごめん。俺が悪かった。でも律子のほうが本当に緊急だったんだ。どうしても放っておけなかった。心配するな。新しいドナー心臓の目処はもうついてる。二、三日中には手術を組めるから」
二、三日中?
彼は忘れてしまったのだろうか。
自分の娘が胸を開かれたまま、たった一人で手術台の上に残され、死を待っていたことを。
「優一、葵はもう……」
「優一さん!」
電話の向こうから、女の甘えた声が割り込んできた。
律子の声だった。
「拓馬が、クロの具合がまた悪いって言ってるの。早く見てあげて」
「悪い、紗穂。話は帰ってから聞く。律子の犬の具合が悪いらしい。先に診てくる」
「優一!」
返ってきたのは、ツーツーという空しい音だけだった。
すっかり血の気を失った葵の寝顔を見つめた瞬間、全身から力が抜けた。
私はその場に、崩れるように座り込んだ。
氷点下のように冷えきった霊安室にいるはずなのに、背中にはじっとりと嫌な汗がにじんでいた。
背筋に冷たいものが走り、胸の奥まで凍りついていくようだった。
葵が息を引き取る前に残した言葉が、耳元でよみがえる。
あの子は最後の最後まで、律子の息子・相川拓馬(あいかわ たくま)のことまで心配していた。
「ママ……パパがね、拓馬くんのほうが危ないんだって。助けに行かなきゃいけないんだって……葵、パパが戻ってくるまで頑張るから……だから、パパのこと怒らないで……」
けれど、葵が誰よりも大好きだった「パパ」は、いちばん助けが必要だったその瞬間に、あの子を見捨てた。
優一は、心臓外科では指折りの名医だった。
検査データを見れば、患者の状態くらいすぐに分かる。
だから律子の息子が誤診されていたことに、優一が気づかなかったとは思えない。
ただ、想いを寄せる女の前でいい顔をして、気を引きたかっただけなのだ。
これまでの私なら、見て見ぬふりもできた。
けれど今回は違う。
彼は、私たちの娘を死なせた。
意識がぼんやりとかすむ中、私はスマホを取り出し、父――竹中玄三郎(たけなか げんざぶろう)に電話をかけた。
泣き崩れる私の声を聞いた父は、痛みをこらえるような声で言った。
「紗穂、父さんは三日後には戻る。安心しなさい。あの連中には、必ず報いを受けさせる」
電話を切ると、私は冷たくなった葵を抱きしめた。
がらんとした霊安室に、私の泣き声だけがいつまでも響いていた。
葵は生前、賑やかな場所が苦手な子だった。
だから葬儀には、ごく親しい友人だけを呼ぶことにした。
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