四度目の婚姻届、もうあなたを待たない第3話
この話は約1654字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
蒼士は、私がまだ機嫌を損ねているだけだと思っていた。
夜、新居へ戻ってきた蒼士は紙袋を一つ持っていた。
中に入っていたのは、白いボレロだった。
「昨日も今日も、千紗のことまで気が回らなかったから」
蒼士はそれを私に羽織らせた。
「この色、千紗に似合うと思って」
私はボレロに目を落とした。
値札さえ外されていない。サイズは小さめだった。
由良ならちょうどいいが、私には肩まわりがきつい。
蒼士は気づかなかった。
いや、私に何が合うのか、初めからきちんと見たことなどなかったのだ。
3日目、蒼士は仕上がったばかりの新居を見に、私を連れていった。
二人で選んだ部屋だった。
けれど、実際にインテリアショップを回り、カーテンを決め、取りつけに立ち会ったのは、ずっと私一人だった。
蒼士は仕事が忙しく、そういうことを面倒がった。
「千紗の好きなようにすればいいよ。俺はどこに住んでも構わないから」
以前の私は、その言葉がうれしかった。
私の好みを尊重してくれているのだと思っていた。
今なら分かる。ただ、どうでもよかっただけだ。
リビングの隅には、月をかたどったランプが置かれていた。
時間をかけて選んだものだった。
すりガラスのシェードは、明かりをつけると柔らかな霧をまとった小さな月のように見える。
蒼士は初めて見たとき、子どもっぽいと笑った。
「こんなのを新居に置いたら、子ども部屋みたいだな」
けれど今日は、由良も来ていた。
由良はランプの前に立ち、長い間眺めていた。
「きれい。私の部屋、夜になると暗いの。天井の照明はまぶしすぎるし」
蒼士の目元が、たちまち和らいだ。
「気に入ったなら持って帰れよ」
私の指先に力が入った。
「これは、新居に置くために私が買ったものだよ」
蒼士が振り返った。
「また買えばいいだろ?」
由良が唇をかんだ。
「やっぱりいいよ。千紗も気に入ってるみたいだし」
蒼士は構わず、作業員に配線を外すよう頼んだ。
「千紗はそんなに心が狭くない」
私はその場に立ったまま、ランプが部屋の隅から運び出されるのを見ていた。
コードが巻かれ、由良の車に積み込まれていく。
その瞬間、ずっと昔のことを思い出した。
蒼士と初めて夜店へ行った日。
星をかたどったランプが欲しくて、私は財布を握ったまま長いこと迷っていた。
蒼士が買ってくれたものの、由良が少し目を留めただけで、すぐ彼女に袋を渡した。
「千紗には、また今度買えばいい」
また今度。
明日。
いつか。
そんな言葉が目に見えない網となって、何年もの間、私を閉じ込めていた。
蒼士は予備のカードキーまで由良に渡した。
「夜が怖くなったら、ここに泊まればいい」
私は蒼士を見つめた。
「ここは、私たちの新居だよ」
蒼士は眉をひそめた。
「たまに来るだけだ。そんな言い方するなよ」
由良はカードキーを握り、小さな声で言った。
「千紗、やっぱり受け取らないほうがいい?」
蒼士が遮った。
「持ってろ」
それから私に向き直り、きつい口調で続けた。
「どうしていつも、俺を困らせるんだ?」
私は思わず笑った。
蒼士を困らせているのは、私だったらしい。
突然、蒼士を呼び出す由良ではない。
何度も蒼士を呼び出し、私を置き去りにさせた由良でもない。
ようやく「嫌だ」と口にした私が、蒼士を困らせているのだ。
家に戻ると、私はクローゼットを開けた。
中には、ドレスショップから届いた白いワンピースが掛かっていた。
その隣には、蒼士が適当に選んだ小さめのボレロがある。
私はボレロを畳んで紙袋に戻した。
白いシャツと本人確認書類、それに数日分の着替えをスーツケースに入れた。
ファスナーが閉じる音は、とても小さかった。
蒼士はリビングで、由良にボイスメッセージを送っていた。
「ランプを取りつけたら連絡して。怖がらなくていい。いつでも電話に出るから」
私は寝室のドアの陰に立ち、長いことその声を聞いていた。
それから、スマホで列車の予約画面を開いた。
行き先は、汐見町。
明日の11時20分発。
購入を確定した。
あの瞬間、逃げると決めたわけではなかった。
ただ、一度くらい蒼士が私を引き留めるのか、確かめたかった。
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