四度目の婚姻届、もうあなたを待たない第1話
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婚姻届を提出する日、市役所の受付番号が私たちの番になった途端、榎本蒼士(えのもと そうし)のスマホが鳴った。
画面を見た蒼士は、婚姻届をすぐに私・藤岡千紗(ふじおか ちさ)のバッグに戻した。
「由良のマンションが停電して、廊下の照明まで消えたらしい。あいつは暗いところが苦手だから、ちょっと行ってくる」
私は必要書類を握りしめ、窓口の前に立ち尽くした。
「蒼士、今日中に手続きを済ませるって約束したよね」
蒼士はもう出口へ向かっていた。焦りを帯びた声だけが返ってきた。
「1日遅れたって何も変わらないだろ。千紗は物分かりがいいんだから、こんなときくらい我慢してくれよ」
朝から夕方まで待ち続け、やがて市役所が閉まる時間になった。
そのころ、スマホには小宮由良(こみや ゆら)がLINEのタイムラインに投稿した写真が流れてきた。
添えられた言葉は、たった一言だった。
【人生の大事な用事を放り出してまで、誰かが駆けつけてくれるって、こんな気持ちなんだ】
ふいに、昔からずっとそうだったことを思い出した。
映画が始まった直後、由良から電話がかかってくると、蒼士は私だけを席に残した。
「あいつは暗いところが苦手だから、家まで送ってくる」
私の誕生日には、落ち込んでいる由良に付き添って川沿いを歩き、翌日になってようやく「誕生日おめでとう」と言った。
私にプロポーズしたのも、由良の婚約が破談になった夜だった。
ようやく私を見てくれたのだと思っていた。
けれど本当は、行き場を失った蒼士のそばに、たまたま私がいただけだった。
市役所のガラス扉に映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。
今度こそ、もう蒼士を待たない。
* * *
蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。
窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。
「お手続きは、どうなさいますか?」
口を開いたものの、声が出なかった。
後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。
私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。
手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。
朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。
そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。
「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」
そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。
「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」
あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。
けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。
17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。
職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。
「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」
私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。
ようやく蒼士からメッセージが届いた。
【電気は直った】
【先に帰ってて。俺もあとで戻る】
その2行を、私はいつまでも見つめていた。
まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。
謝罪の一言さえなかった。
外はすっかり暗くなっていた。
私は一人で新居に帰った。
玄関には、スリッパが3足並んでいた。
グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。
その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。
前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。
蒼士はその翌日に買ってきた。
私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。
蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。
「千紗は寒さに強いだろ?」
玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。
蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。
手には焼き栗の紙袋を提げていた。
リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。
「帰りに買ったの?」
蒼士は一瞬、言葉に詰まった。
「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買った」
紙袋を私に差し出した。
「まだ温かいぞ。いつまでもむくれるなよ」
私は受け取らなかった。
蒼士が眉をひそめた。
「今日のことは、わざとじゃない。あっちは本当に真っ暗だったんだ。電話口で泣いてたのに、放っておけるわけないだろ」
私は目を伏せた。
「じゃあ、私は?」
蒼士は少し黙った。
「千紗は違うだろ」
その言葉なら、もう何度も聞いてきた。
千紗は違う。
暗いところも平気だ。
寒さにも強い。
泣いたりしない。
蒼士は焼き栗をローテーブルに置き、少しだけ声を和らげた。
「明日、もう一度行こう。それでいいだろ?」
私は紙袋を見つめた。
袋に印刷されているのは、西町商店街にある店の名前だった。
由良がいちばん気に入っている店だ。
市役所からはずいぶん離れている。
街を横切って焼き栗を買いに行く時間はあっても、私と婚姻届を出すために戻る時間はなかったらしい。
私は本人確認書類をバッグから取り出した。
いつものように蒼士の引き出しに入れず、自分のスーツケースの内ポケットにしまった。
それに気づいた蒼士の顔が険しくなる。
「千紗、今度は何のつもりだ?」
私はファスナーを閉めた。
「別に。明日、話せばいいよ」
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