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四度目の婚姻届、もうあなたを待たない第1話

この話は約2090字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

婚姻届を提出する日、市役所の受付番号が私たちの番になった途端、榎本蒼士(えのもと そうし)のスマホが鳴った。

画面を見た蒼士は、婚姻届をすぐに私・藤岡千紗(ふじおか ちさ)のバッグに戻した。

「由良のマンションが停電して、廊下の照明まで消えたらしい。あいつは暗いところが苦手だから、ちょっと行ってくる」

私は必要書類を握りしめ、窓口の前に立ち尽くした。

「蒼士、今日中に手続きを済ませるって約束したよね」

蒼士はもう出口へ向かっていた。焦りを帯びた声だけが返ってきた。

「1日遅れたって何も変わらないだろ。千紗は物分かりがいいんだから、こんなときくらい我慢してくれよ」

朝から夕方まで待ち続け、やがて市役所が閉まる時間になった。

そのころ、スマホには小宮由良(こみや ゆら)がLINEのタイムラインに投稿した写真が流れてきた。

添えられた言葉は、たった一言だった。

【人生の大事な用事を放り出してまで、誰かが駆けつけてくれるって、こんな気持ちなんだ】

ふいに、昔からずっとそうだったことを思い出した。

映画が始まった直後、由良から電話がかかってくると、蒼士は私だけを席に残した。

「あいつは暗いところが苦手だから、家まで送ってくる」

私の誕生日には、落ち込んでいる由良に付き添って川沿いを歩き、翌日になってようやく「誕生日おめでとう」と言った。

私にプロポーズしたのも、由良の婚約が破談になった夜だった。

ようやく私を見てくれたのだと思っていた。

けれど本当は、行き場を失った蒼士のそばに、たまたま私がいただけだった。

市役所のガラス扉に映る私の顔は青ざめ、それでもひどく静かだった。

今度こそ、もう蒼士を待たない。

* * *

蒼士が市役所を出ていったとき、受付案内の画面にはまだ私たちの番号が表示されていた。

窓口の職員は私を見て、それから玄関のほうへ目をやった。

「お手続きは、どうなさいますか?」

口を開いたものの、声が出なかった。

後ろから、順番を待つ人の苛立った声が聞こえた。

私はようやく窓口から離れ、次の二人に場所を譲った。

手の中の婚姻届は、強く握りしめたせいでしわだらけになっていた。

朝、家を出る前に、自分でバッグに入れたものだった。

そのとき蒼士は、緊張する私を笑っていた。

「婚姻届を出すだけだろ。そんなに身構えるなよ」

そう言って、私の白いシャツの襟を整えてくれた。

「出し終わったら、夜は千紗が好きな牛すじうどんの店に行こう」

あのときの私は、今日だけは蒼士が私だけを見てくれると、本気で信じていた。

けれど由良から電話がかかってくると、蒼士は振り返りもしなかった。

17時半、市役所では窓口を閉める準備が始まった。

職員がカウンターの書類を片づけながら、私に声をかけた。

「本日の受付は終了します。改めてお二人でいらしてください」

私は待合用の長椅子に座ったまま、足がしびれて立ち上がれなかった。

ようやく蒼士からメッセージが届いた。

【電気は直った】

【先に帰ってて。俺もあとで戻る】

その2行を、私はいつまでも見つめていた。

まだ市役所にいるのかと尋ねる言葉はなかった。

謝罪の一言さえなかった。

外はすっかり暗くなっていた。

私は一人で新居に帰った。

玄関には、スリッパが3足並んでいた。

グレーは蒼士のもの。アイボリーは私のもの。

その隣には、ピンク色の起毛素材のスリッパがあった。

前に遊びに来た由良が、床が冷たいと言ったからだ。

蒼士はその翌日に買ってきた。

私の分も、ついでに暖かいものに替えてくれないのかと尋ねたことがある。

蒼士は届いた荷物を開けながら、こちらも見ずに答えた。

「千紗は寒さに強いだろ?」

玄関の鍵が開いたのは、もうすぐ22時になろうというころだった。

蒼士が、夜風の冷たさをまとって入ってきた。

手には焼き栗の紙袋を提げていた。

リビングに立ったまま、私は蒼士を見つめた。

「帰りに買ったの?」

蒼士は一瞬、言葉に詰まった。

「由良が食べたいって言うから、並んでるついでにもう一つ買った」

紙袋を私に差し出した。

「まだ温かいぞ。いつまでもむくれるなよ」

私は受け取らなかった。

蒼士が眉をひそめた。

「今日のことは、わざとじゃない。あっちは本当に真っ暗だったんだ。電話口で泣いてたのに、放っておけるわけないだろ」

私は目を伏せた。

「じゃあ、私は?」

蒼士は少し黙った。

「千紗は違うだろ」

その言葉なら、もう何度も聞いてきた。

千紗は違う。

暗いところも平気だ。

寒さにも強い。

泣いたりしない。

蒼士は焼き栗をローテーブルに置き、少しだけ声を和らげた。

「明日、もう一度行こう。それでいいだろ?」

私は紙袋を見つめた。

袋に印刷されているのは、西町商店街にある店の名前だった。

由良がいちばん気に入っている店だ。

市役所からはずいぶん離れている。

街を横切って焼き栗を買いに行く時間はあっても、私と婚姻届を出すために戻る時間はなかったらしい。

私は本人確認書類をバッグから取り出した。

いつものように蒼士の引き出しに入れず、自分のスーツケースの内ポケットにしまった。

それに気づいた蒼士の顔が険しくなる。

「千紗、今度は何のつもりだ?」

私はファスナーを閉めた。

「別に。明日、話せばいいよ」

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