原則は私に、特別扱いは彼女に第1話
この話は約1642字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
恋人が医師だと知ると、親戚たちは口々に羨ましがった。
「これで、お母さんが病院にかかるときも安心ね」
「お医者さんが娘婿になるなら、予約も専門医の紹介も融通が利くでしょう」
私・高瀬美緒(たかせ みお)は笑って首を横に振った。
「そういう特別扱いはしない人だから」
それが、黒川創真(くろかわ そうま)の信条だった。
母が心筋梗塞で入院し、急いで冠動脈バイパス手術を受けなければならなかったときも。
私が、どの専門医に診てもらうべきか聞いてほしいと頼んだだけなのに、創真は腹を立てた。
「美緒、俺を困らせないでくれ。俺が立場を使って誰かを特別扱いするのを一番嫌ってるって、知ってるだろ」
彼を困らせたくなくて、その後の3年間、私は二度と何も頼まなかった。
ところが今日、母の診察に付き添って病院を訪れ、特別外来の前を通りかかったとき、甘えるような女の声が聞こえた。
「幼なじみがお医者さんで本当によかった。病院に来るたび、創真が特別枠で案内してくれるの。予約も待ち時間も、気にしたことないんだから」
思わず足が止まった。
顔を上げると、水野莉奈(みずの りな)の隣に立っていたのは、3年間付き合ってきた私の恋人、創真だった。
* * *
そばにいた看護師たちは莉奈の話を聞き、笑いながら口々に言った。
「水野さんは本当に幸せですね」
「黒川先生、普段はあんなにそっけないのに、水野さんには本当に細やかですもの」
「そうそう。特別診療枠はなかなか取れないのに、先生がひと言頼めば、水野さんは毎回すぐ診てもらえるんですから」
莉奈は目を細めて笑った。
「そんなことないですよ。創真は昔から気が利くんです」
控えめに否定しているようで、その声には得意げな響きが隠しきれずににじんでいた。
私はその場に立ち尽くし、母の診察受付票を少しずつ握りしめた。
昨夜からほとんど眠らずに予約枠を確認し続け、午前4時になってようやく取れた予約だった。
一般外来で待ち、検査室で待ち、会計でもまた待った。
足の悪い母は顔を青ざめさせながら、それでもずっと「大丈夫」と言っていた。
それなのに創真はどうだろう。
彼なら、ひと言確認するくらいはできたはずだ。たったひと言でよかった。
けれど、彼が私に返す答えは、いつも「原則」だった。
今すぐ駆け寄って問い詰めたかった。
創真。
あなたの原則はどこへ行ったの。
あれほど特別扱いを嫌っていたのは、何だったの。
ところが一歩踏み出した途端、母に手首をつかまれた。
やせ細った手の関節が食い込み、痛いほどだった。
「美緒、行かないで」
母は首を横に振り、私をなだめた。
「私のことで創真くんと喧嘩しないで。仕事も忙しいし、プレッシャーだって大きいでしょう。それに、ちゃんと診てもらえたんだから、少しくらい待ってもいいじゃない」
鼻の奥がつんとした。
問題は、少し待つことではなかった。
この3年間だった。
初めて断られて以来、私は一度も彼に助けを求めなかった。
困らせたくなかった。聞き分けのない女だと思われたくなかった。
私が「わきまえのないこと」をすれば、二人の関係まで気まずくなってしまう気がしていた。
けれど今、颯真は自ら莉奈に付き添い、看護師に一つひとつ細かく念を押していた。
「セフェム系抗菌薬にアレルギーがある。カルテにはっきり書いておいて。痛みに弱いから、採血はできるだけ優しく。それから消毒液のにおいが苦手だから、診察室の換気もお願い」
淡々とした声だったが、ひと言ひと言に細やかな気遣いがこもっていた。
莉奈が彼を見上げ、嬉しそうに笑った。
「創真、まだ覚えてたの?」
創真は莉奈を見下ろした。その目には、私がほとんど見たことのない柔らかさがあった。
「莉奈のことなら、覚えてるに決まってる」
両家の顔合わせをした日のことが、ふいに脳裏をよぎった。
母は魚介類にアレルギーがあり、特にカニやエビは口にできない。私はそのことを、前もって何度も彼に伝えていた。
それなのに、初めて母に会いに来た日、創真が手土産に持ってきたのは、大きなカニとエビの詰め合わせだった。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)