半分こする愛なんていらない第1話
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私の名前は周防澪(すおう みお)。
台風で街中が冠水したあの日。
夫の周防拓海(すおう たくみ)は車を出し、被害の大きい地区へ幼馴染の白鳥結月(しらとり ゆづき)を迎えに行き、そのまま彼女を家に連れ帰った。
その一方で、妻である私には「水浸しの道を歩いて地下鉄で帰れ」とメッセージを送ってきたのだ。
地下鉄の駅で、ずぶ濡れになった私を見た同僚は複雑な表情を浮かべた。
「澪さん……旦那さん、本当にあなたのこと大切にしてるの?」
私はスカートの裾を絞りながら、無理に笑って見せた。
「彼女の家、土地が低くて浸水しやすいから。それにわざわざ遠回りして私を迎えに来るのも大変だし」
潤んだ瞳に小さな唇、結月は誰もが思わず手を差し伸べたくなるような、儚げな雰囲気を纏う女性だ。
かつて拓海と結婚した時、共通の友人たちに冷やかされたことがあった。
もし結月が海外へ行っていなかったら、拓海と結婚したのは間違いなく結月だっただろう、と。
それを聞いた拓海は、私への愛を示そうとでもしたのか、ひとつのルールを設けた。
それからの数年間、記念日の高価なジュエリーから、話題のお店の限定スイーツに至るまで彼は必ず、同じブランドの全く同じものを「2つ」用意するようになった。
彼に言わせればそれが「公平」ということらしい。
家族に対してすら、これほど徹底的に「公平」を貫ける人間が、他にいるだろうか。
私の弁解を聞き終えると、同僚は静かに私を見つめ返した。
「ねえ、澪さん。あなた、それが本当に『公平』だと思ってるの?
妻として自分だけに向けられるべき愛まで、わざわざ他人と半分こしなきゃいけないなんて……
そんなの『公平』でもなんでもない……あなたに対する侮辱じゃないの?」
私はその場に釘付けになった。
まるで、長い夢から突然目を覚まされたような気分だった。
その日の夕食の席で、結月の前に置かれた、彼が丁寧に剥いたカニの身を見つめる。
私は、自分の目の前にある「全く同じ」カニを残らずゴミ箱に捨てた。
そして、淡々と口を開いた。
「拓海。私が欲しいのは『公平』なんかじゃない。私だけの『特別』なの。
もしそれができないなら……半分こする愛なんて、もういらないわ」
* * *
「澪、何怒ってんだよ?コーヒーならちゃんと二杯作っただろ。
お前と結月に一杯ずつだ。
グラム数までまったく同じにしてやったぞ。俺がこれだけお前に気を遣ったのに、まだ足りないって言うのか?
カニだって、せっかく丁寧にほぐしておいたのに、お前が帰ってくるのをずっと待ってたんだぞ。
それを食べないばかりかゴミ箱に捨てるなんて、いくらなんでもやりすぎだろ」
拓海は、全く同じデザインの白い陶器のカップを2つ、ドンッと音を立ててダイニングテーブルに置いた。
コーヒーが数滴飛び散り、真っ赤なテーブルクロスに染みを作った。
彼はテーブルに置いたティッシュをゆっくりと引き抜き、指先を拭きながら不機嫌そうに眉をひそめた。
「結月の住んでる古いアパートは下水が逆流してたんだ。
俺が迎えに行かなかったら、彼女は一晩中屋上に取り残されてたんだぞ。
お前の会社のオフィスビルは地下鉄の駅に直結してるじゃないか。
少し水溜まりを歩けばすぐ駅に着くのに、どうしてこんな些細なことで俺に当たり散らすんだ?」
私はダイニングテーブルの端の椅子に座っていた。
水浸しの靴からは泥水が滲み出し、足元には小さな水たまりができていた。
足先から這い上がる冷たさとともに、腹の底を絞り上げるような激痛が波のように押し寄せてきた。
「拓海。地下鉄の駅からうちのマンションまでは、雨宿りできる場所もない並木道が3キロも続いているのよ」
私は顔を上げた。
声は今にも空気中に溶けて消えてしまいそうなほどかすれていた。
「水は私の腰の高さまであったわ。家まで歩いて帰るのに、丸2時間もかかったのよ。
途中でマンホールの蓋が2つも流されていて、危うく落ちて死ぬところだったの」
拓海の目線が一瞬泳ぐも、すぐにいつもの説教じみた口調に戻った。
「無事に帰ってこれただろ?結月の前で、そんな不安を煽るようなこと言うなよ。
彼女は昔から雷を怖がるし、体も弱いんだ。少し濡れただけで、今も震えが止まらないんだよ。
お前は彼女と違って強いんだから、ホットコーヒーでも飲んで体を温めれば、きっと大丈夫だ」
そう言いながら、彼はホットコーヒーを私の方へ押しやった。
「このコーヒー、お前の好きな豆を使った。結月の分と同じくらい、ちゃんとこだわってるんだぞ。
澪、少しは感謝してくれよ。俺はお前たち二人に対して、常に公平に接しているんだからな」
その時、主寝室のドアが開いた。
結月が拓海のダボダボのバスローブを羽織り、裸足のまま出てきた。
彼女の髪は生乾きで、白い首筋を一筋の雫が伝い落ちていた。
「拓海くん、澪さんを責めないであげて。全部私が悪いのよ」
結月は目を赤くして、怯えたような声を出した。
「こんなことになるなら、私、屋上で一晩中雨に打たれていればよかったわ。
私のせいで澪さんを一人で満員電車に乗せちゃったし、服までこんなに汚させちゃって……」
彼女はダイニングテーブルに近づくと、泥水まみれの私を見て、無意識に拓海の背中へと身を隠した。
「澪さん、早くシャワーを浴びてきて。風邪引いちゃうわよ」
拓海は自然な動きで結月の肩を抱き寄せ、私の足元の泥水を避けるように彼女を自分の横に引き寄せた。
「とりあえずコーヒーを飲め。その後はゲスト用のバスルームを使えよ。
主寝室のバスルームは結月が使ったばかりで湯気で真っ白だからな、お前が入ったら滑って転ぶかもしれない」
なに食わぬ顔でそう言い放つ彼を見て、私の心臓は鈍い刃物で切り裂かれたような痛みを覚えた。
5年前にも、今日のような猛烈な台風があった。
あの頃の拓海は起業したばかりで、タクシー代すら払えないほど貧しかった。
残業していた私を迎えに来るため、彼の中古のバイクは水没して途中で動かなくなってしまった。
それでも彼は、膝まで浸かる泥水の中を、私をおぶったまま5キロも歩いてくれたのだ。
家に着いた時、彼は39度の高熱を出していたというのに、唯一濡れていなかった彼の上着を私の肩にしっかりと巻き付けてくれた。
あの時、彼は私の濡れた髪を撫でながら言ってくれたのだ。
「澪、俺が生きている限り、お前には二度と惨めな思いなんてさせないから」
今、彼は数千万もする高級車に乗っているというのに、私を迎えに来るたった30分の遠回りでさえ、私には許されない贅沢になってしまった。
「何も言わないのか、澪? お前、普段はもっと聞き分けがいいのに」
私が黙っていると、拓海の口調には苛立ちが混じり始めた。
「結月は明日、ギャラリーの面接があるんだ。そんなお通夜みたいな顔をして、彼女を不安にさせるなよ」
私は立ち上がった。湯気を立てるコーヒーには目もくれなかった。
ずぶ濡れのスカートの裾が脚にまとわりつき、氷のように冷たい。
「分かったわ」
私はテーブルを離れ、コーヒーには手を出さず、そのままゲスト用のバスルームへと向かった。
鍵をかけた瞬間、下腹部に激しく引き裂かれるような痛みが走った。
濡れたスカートを脱ぎ、ふと下を見た。
太ももの内側を、嫌に鮮やかな血が伝い落ちていた。
私と拓海が何年も待ち望んでいたこの子は、この台風の夜に消えてしまう。
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