凍てつく夜明けと、さよならの温度第1話
この話は約2004字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
私、林原詩乃(はやしばら しの)の産後うつが完治したその日、車を運転していた内藤凌雅(ないとうりょうが)は突然口を開いた。
「実は、外にもう一つ家庭があるんだ」
不意打ちの一言に、頭の中がぐわんと鳴った。
凌雅は前を見たまま、ため息まじりに続けた。
「ここ数年、お前が産後うつで毎日死ぬだの生きるだのと騒ぐから、俺だって生き地獄だったんだよ。
もう治ったんだから、これからは本当の妻と子供のために時間を使いたい」
しばらく、私は声も出なかった。ようやく喉の奥から震える声を絞り出す。
「じゃあ……私とこの子は何なの?ただの偽物ってこと?」
凌雅はすぐには否定しなかった。やがて、悪びれもせず言い放つ。
「好きに思えばいい。どうせ子供のためにも、お前は俺のもとから離れられないだろ?」
私の体から、すーっと血の気が引いていった。
必死に治ったふりをしていただけの私は、一瞬にして元の深い闇へと引きずり戻された。
* * *
私、林原詩乃(はやしばら しの)の産後うつが完治したその日、車を運転していた内藤凌雅(ないとう りょうが)は突然口を開いた。
「実は、外にもう一つ家庭があるんだ」
不意打ちの一言に、頭の中がぐわんと鳴った。
凌雅は前を見たまま、ため息まじりに続けた。
「ここ数年、お前が産後うつで毎日死ぬだの生きるだのと騒ぐから、俺だって生き地獄だったんだよ。
もう治ったんだから、これからは本当の妻と子供のために時間を使いたい」
しばらく、私は声も出なかった。ようやく喉の奥から震える声を絞り出す。
「じゃあ……私とこの子は何なの?ただの偽物ってこと?」
凌雅はすぐには否定しなかった。やがて、悪びれもせず言い放つ。
「好きに思えばいい。どうせ子供のためにも、お前は俺のもとから離れられないだろ?」
私の体から、すーっと血の気が引いていった。
必死に治ったふりをしていただけの私は、一瞬にして元の深い闇へと引きずり戻された。
嫌というほど覚えのある窒息感が襲いかかってくる。私は喉を強く押さえ、激しく喘いだ。
凌雅はいつものように水筒を渡し、私の背中をさすりながらも、残酷な言葉を吐き続けた。
「お前が出産した日、華恋から具合が悪いって電話があってな。行ってみたら、あいつにとって俺はただのセックスの相手として呼ばれただけだった。
正確に言えば、俺とあいつはただの合法的なセフレなんだよ」
やっとの思いで水を飲み込んだが、胃の奥で強烈な吐き気が渦巻いていた。
あの日――出産の日、私は緊急で手術室に運ばれた。なのに凌雅は来なかった。
医師が十回以上電話をかけても、彼には一度も繋がらなかった。
がらんとした廊下に、私の絶望的な悲鳴だけが響いていた。
あの日から、私は一人でいることが怖くなった。子供の泣き声を聞くたびに、心が壊れそうになった。
医師の診断は、重度の産後うつだった。
凌雅は突然車を路肩に止め、ティッシュを数枚取って私の涙を拭った。
「じゃあ……」
嗚咽を噛み殺しながら、私は問い詰めた。
「奥さんがいるのに、どうして私と子供を作ったの?」
凌雅の手が止まった。それから、口の端を歪めて自嘲気味に笑う。
「さっき言っただろ。華恋と結婚したのは、くだらない約束のためだ。
でもな詩乃、俺が愛してるのはお前なんだ。お前が欲しがってた子供も作ってやった。それじゃ足りないのか?」
凌雅は真剣な目で私を見つめていた。私の肯定の返事を待っているかのように。
自分が施した愛を、ありがたく受け取れとでも言うように。
けれど、私が必死にしがみついてきたものは、その瞬間、音を立てて崩れ落ちた。
ついさっき、私は丸暗記した模範解答で精神科医の質問を乗り切ったばかりだった。
何度も押し寄せる「死にたい」という衝動を、必死に押し殺して。
そうしてやっと手に入れた――夢にまで見た「完治」の診断。
今日から、またやり直せると思っていたのに……
涙が止まらなかった。
「凌雅、あなた最低よ」
凌雅は私を見つめ、ふっと笑った。
「ああ、最低だ。でも一番きつかったこの数年間、俺はずっとお前のそばにいた。少なくともお前と子供にとっては、いい夫でいい父親だったはずだろ」
その瞬間、自分がどれほど愚かで滑稽だったかを思い知った。
黙り込んだ私を見て、凌雅は満足そうに私の頭を撫で、また車を走らせた。
やがて、彼のスマホが鳴った。
「あなた、会いたいわ。朝言い忘れてたんだけど、うちの水道管がね……」
電話の向こうの女は、当たり前のように彼を「あなた」と呼び、夫婦の家庭の些細な出来事を話していた。
凌雅は甘やかすようにそれを聞き、相槌を打った。
そして最後に軽く笑って、私を見た。
「華恋が呼んでる。すぐに行かないと。
家はもうすぐそこだから、ここで降りて一人で帰ってくれ」
私は冷たい道端に車から降ろされた。
歩いて十分の道のりが、これほど遠く感じたことはなかった。
家に帰ると、私はゴミ箱に捨てたばかりの睡眠薬を引っ張り出し、一粒残らず飲み込んだ。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)