冬の終わり、遅すぎた後悔第3話
この話は約2052字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
若菜はその場で立ち尽くした。
考えるまでもなく、千聡が何をしているのかは分かっていた。
ここは二人にとって唯一の心の拠り所だった。
彼はこれまで、一度も誰かをここへ連れてきたことはない。
それなのに今、彼は唯を抱き寄せ、若菜と何年も前に撮った写真の上に手をついていた。
「ここ、すごく狭い。でも、そのぶんあなた、いつもより興奮してるみたいね......」
甘ったるい唯の声に、千聡の胸が震えた。
彼女の手を握る力が、さらに強くなる。
「私たちって、最後の時間を大事にしてる、引き離される運命の恋人みたい......このボロアパートだからこそ、余計に雰囲気があると思わない?」
若菜はぎゅっと拳を握り締め、ゆっくりと息を吐くと、静かにドアを閉めた。
そして振り返り、申し訳なさそうに言った。
「すみません。今日は内見できそうにありません。また別の日にしましょう」
買い手は若い女性だった。
先ほどの声も聞こえていたらしく、若菜を見る目には同情が浮かんでいる。
「入らないんですか?大丈夫ですよ。もし揉めても、私もいますから」
若菜は首を横に振り、礼を言った。
「大丈夫です。もう気にしていないので。また日を改めましょう」
飛び込んで、何をするというのだろう。
狂ったように怒鳴りつけるのか。
それとも涙を流しながら、これまでどれだけ彼のために尽くしてきたかを訴えるのか。
結果は何も変わらない。
心の中にもう別の誰かがいる男は、たとえ取り戻したところで抜け殻でしかない。
若菜は足早に階段を下りた。
その背後から追いかけてきた千聡が、彼女の腕を掴む。
息を切らし、シャツのボタンすら留めきれていなかった。
「さっき......家に来ただろ?何か......聞いたのか?」
若菜はさりげなく腕を引き抜き、首を振る。
「ううん、何も。近くを通っただけ。鍵を持ってないことに気づいて、そのまま帰ったの。中には入ってないわ」
その言葉を聞き、千聡は安堵の息をついた。
若菜は、自分が帰宅しなかったことを気にして、思い出の場所へ来ただけなのだと思った。
やはり彼女は自分から離れられない。
慌てて言い訳を並べる。
「この3日間はずっと会社だったんだ。今の会社は俺がいないと回らないって、お前も分かってるだろ。退院したばかりのお前の邪魔をしたくなかったから、この部屋に来てただけなんだ」
あまりにも稚拙な嘘だった。
若菜は追及する気にもなれず、そのまま立ち去ろうとした。
その瞬間――
アパートの部屋から、一気に炎が噴き上がった。
千聡の目は血走り、彼は乱暴に若菜の顎を掴む。
真っ赤な目は獣のようだった。
「本当に大人しくなったのかと思ったら、わざと火をつけたのか......!唯は俺がここに住まわせてるんだ!あの子に何かあったら、お前を絶対に許さないぞ!」
そう言い捨てると、若菜を突き飛ばし、そのまま燃え盛る部屋へ飛び込んでいった。
勢いよく突き飛ばされた若菜は、よろめいて体勢を崩す。
ふと、暮らしがようやく少し楽になった頃のことを思い出した。
この古びた路地で、二人は強盗に襲われた。
抱えていたのは、苦労して貯めた100万円。
地面へ押さえつけられ、刃物が首元へ振り下ろされようとした、そのときだった。
千聡は命がけで駆け込み、素手で刃を掴んだ。
温かな血が、若菜の頬へぽたぽたと落ちる。
千聡は犯人を地面へ押さえつけ、何度も拳を振り下ろした。
「こいつに何かあったら絶対に殺してやる!」
わずか数年で、彼は別の人間へ変わってしまった。
若菜は立ち去ろうとして、ふと思い出す。
離婚届を入れた木箱を、寝室のクローゼットへしまったままだった。
だめだ。
あれは千聡のもとを離れるための、唯一の証だ。
熱風を浴びながら、彼女は必死にアパートへ戻る。
千聡は腕に広範囲の火傷を負いながら、唯を支えて逃げ出そうとしていた。
「何だ。彼女が死ぬところでも見に来たのか?」
若菜は彼の皮肉など気にも留めず、火の勢いを増した寝室へ急ぐ。
「もうやめろ!火が強すぎる!一緒に逃げるんだ!」
千聡は彼女の手を掴もうとした。
次の瞬間、燃え盛るガラス戸が轟音とともに砕け散る。
千聡は反射的に唯を胸へ抱き寄せ、身を挺してかばった。
飛び散ったガラスは若菜の全身を切り裂き、彼女は血まみれのまま地面へ倒れ込む。
爆発の衝撃でクローゼットが倒れ、そのまま彼女の体へ覆いかぶさった。
若菜は最後の力を振り絞って木箱を胸へ抱き締めると、そのまま意識を失った。
朦朧とする意識の中で、彼女は数々の思い出を夢に見た。
18歳の千聡は、彼女の手を握り、「一生養う」と誓ってくれた。
22歳の千聡は、接待で酔いつぶれながらも、彼女の大好物だったケーキを胸に抱えて帰ってきた。
24歳の千聡は、彼女の前に跪いてプロポーズし、「一生離れない」と約束した。
28歳の千聡は、鬼のような形相で、「俺は10年以上養ってやったんだ。感謝されるのは俺のほうだ!」と怒鳴った。
再び目を開けると、若菜は病院のベッドに横たわっていた。
千聡は、彼女が命懸けで持ち出した木箱を、今まさに開けようとしていた。
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