冬の夜を越えるピアノの調べ第2話
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雪乃への返信は、ただ一言だった。【おめでとう】
指導教官への返信も、すぐに打ち込んだ。【芳賀先生、そのオファーをお受けします】
雪乃からの返信は早かった。送られてきたのは指を絡め合わせた二人の手の写真で、薬指にはめられたダイヤの指輪が、画面越しでも目を刺すほど眩しく光っていた。
添えられたメッセージには、隠しきれない喜びが弾けていた。【彼がね、私のことを彼の白鳥だって言ってくれたの】
指導教官からも、ほぼ即座に返信が来た。
【よかった!楽団の人間がもうすぐ帰国する。航空券は向こうが手配してくれるから、7日後に必ず手続きに向かいなさい。頑張れよ!】
夜瑠は画面を見つめたまま、ふうっと長く息を吐き出した。
彼女は隠し持っていた卒業証明書を、鞄の奥へと押し込んだ。本来なら交際7周年のサプライズにするつもりだったその証明書は、今や彼女の逃亡を叶える切符となっていた。
ダークウェブのページはまだ開いたままで、彼女は肉親探しの依頼フォームの送信ボタンを、静かにクリックした。
鬱蒼と茂るプラタナスの葉越しに、邸宅の窓際に立つあの男の横顔が見える。相変わらず、すべてを掌の上で転がしているかのような、余裕に満ちた佇まいだった。
――晏臣、今度こそ、私は本当にあなたの元を去るわ。
唯一の家族を自称していた彼がこうして裏切ったのだから、これからは本当の家族を探しに行けばいい。
彼女は覚束ない足取りで、二人の住まいへと戻った。
予想通り、その夜、晏臣が帰ってくることはなかった。
午前3時、スマホが震えた。
彼からのメッセージだった。【夜瑠、会社で急用ができて出張に出ることになった。大人しく家で待っていてくれ。愛してる】
空が白み始めた頃、再び雪乃からの通知がポップアップし、今度は短い動画が添付されていた。
【夜瑠、私今雲市にいるの!彼がね、私に白鳥のお城を建ててくれたんだよ!もう幸せすぎる!】
動画の中では、広大な音楽噴水の中央に巨大なクリスタルガラスの白鳥が鎮座しており、降り注ぐ朝陽を反射して、目が眩むほどの輝きを放っている。
画面の端に横顔をわずかに覗かせた晏臣が、甘い声で尋ねる。「雪乃、誰にメッセージを送ってるんだ?」
「もちろん夜瑠よ」
雪乃は甘ったるい笑い声を上げながら、彼の首に腕を絡ませた。「桐生さん、どうかした?夜瑠は私の一番の親友なんだから」
カメラがぐっと向きを変え、晏臣の顔を真正面から捉えた。
その瞬間、晏臣の目がぎくりと見開かれ、すぐにふっと表情を緩める様を、夜瑠は画面越しに見逃さなかった。
それもそうだろう。彼の認識では、夜瑠が大学のキャンパスに足を踏み入れているなど、万に一つもあり得ないのだから。
かつての彼は、いつも彼女を胸の奥深くに抱きすくめ、その頭を慈しむように撫でながら、狂気じみた独占欲を瞳に滲ませて囁いていた。
「夜瑠、学校なんて行かないでくれ。お前が他の男の目に晒されるのは耐えられないんだ」
彼は彼女の耳たぶに口づけながら続けた。「こんなに綺麗なお前が、他の男に攫われたらどうするんだ?」
しかし、音楽への夢を捨てきれなかった彼女は、彼に内緒で大学を受験した。
通学時は毎日マスクで顔を覆い、異性とは一切口を利かなかったため、同級生たちからは変わり者扱いされていた。
だが、そんなことは少しも気にならなかった。
卒業証明書を手にしたその日は、帰宅した彼に向かって証明書をひらひらと揺らしてみせる場面を想像し、少しツンとした口調をこっそり何度も練習したものだ。
「ほら、誰にも攫われなかったでしょ?」
そして、そのまま彼を卒業式へと引っ張っていくのだ、と。
だが今となっては明白だ。まんまと「攫われた」のは、他でもない晏臣の方だったのだから。
雪乃は当初、自ら夜瑠にすり寄ってきた。夜瑠は彼女の異様なほどの馴れ馴れしさに、何か裏の目的があるのではないかと違和感を覚えていた。
しかし付き合っていくうちに、二人には驚くほど多くの共通の趣味があることが分かった。
乗馬を好み、アーチェリーを嗜み、白い色を愛し、そして何よりピアノを弾くのが大好きだった。
雪乃は、秘密の恋バナまで打ち明けてくれるようになった。
「夜瑠、私の憧れの人がね、私のこと好きだって、支援したいって言ってくれてるんだけど……私、どうしたらいいか分からなくて」
あの頃の夜瑠は、晏臣と愛し合っているという甘い錯覚にどっぷりと浸かりきっており、ただ微笑んでこう助言した。「自分の心の赴くままにすればいいのよ」
あのプロポーズの現場に居合わせさえしなければ、雪乃の言う「憧れの人」が、毎日自分に「愛してる」と囁いていた晏臣その人であったことなど、一生知る由もなかっただろう。
堪えきれずに流れた涙が心の奥底へと滴り落ち、絶望的なまでの苦痛が、体の隅々にまでじわじわと広がっていった。
動画はまだ続いている。
晏臣はすでに雪乃を横抱きにしており、その言葉には甘やかしと寵愛が溢れていた。
「さっき俺のこと何て呼んだ?桐生さん?随分いい度胸してるじゃないか。さあ、旦那様がお前をたっぷり『お仕置き』してやる番だな」
動画はそこでぷつりと途切れた。
夜瑠の掌からスマートフォンが滑り落ち、ソファの隅へと転がっていく。
彼女は目を閉じ、体を小さく丸め込んだが、肩の震えはどうしても止まらなかった。
あんなにも甘く親密な口調で、晏臣が彼女に語りかけてくれたことなど、一度たりともなかった。
昔から彼が冷徹な性格で、甘い言葉を囁くのが苦手なのだとばかり思い込んでいた。
だが今なら分かる。言えないのではなく、自分には与えたくなかっただけなのだ。
雪乃からのメッセージは、その後も次々とポップアップし続けていた。
【夜瑠、彼ね、ベッドでもすごく激しくて……私、本当にいい人見つけちゃった。恥ずかしいな】
【あなたがくれた結婚祝いのプレゼント、彼に破られちゃったよ、もう……】
【夜瑠も旦那さんに毎日求められてるって言ってたよね?早くコツ教えてよ、私もう体がもたないよ】
夜瑠の心は生きたまま引き裂かれたように、そこへ凍てつくような隙間風が吹き込んでくる。
雪乃からねだられた、あの結婚祝いのプレゼントを思い出す。
それは、彼女が三軒も店を回ってようやく選び抜いた、セクシーなランジェリーだった。
苦痛に目を閉じると、麻痺した心の底からどろりとした吐き気が込み上げ、息が詰まりそうになる。
心底信じ抜いた親友と、骨の髄まで愛した男。その二人が結託して、彼女を徹底的に痛めつけ、ボロボロに引き裂いた。
これらすべてが、本当にただの偶然だというのか?
突然、晏臣専用に設定した通知音が鳴り響いた。
開いてみると、取引先との契約を交わす写真だった。スーツを完璧に着こなし、余裕のある笑みを浮かべている。添えられた文面には、いつものような優しさが滲んでいた。
【夜瑠、会議が終わったぞ。夕食には間に合いそうだ。お前にサプライズがある】
彼の芝居は、隙もないほど完璧だった。
もし雪乃の動画を見ていなかったら、彼女はきっと以前のように彼の甘い言葉に丸め込まれ、彼が編み上げた嘘の中で大人しく甘い夢を見続けていたことだろう。
夜の6時、晏臣は時間通りにドアを開けて入ってきた。
オーダーメイドのスーツにはシワ一つなく、体からは彼女が贈ったモミの香水の香りが漂い、首筋や手首も清潔そのもので、怪しい痕跡など微塵も残していなかった。
その瞳には相変わらずの優しさが満ちており、腕には白薔薇の花束を抱え、手には彼女が一番好きなチョコレートを提げている。そして身を屈め、彼女の額にそっとキスを落とした。
「夜瑠、帰ったぞ」
夜瑠は冷ややかな瞳で、彼が手慣れた様子で花を花瓶に生け、着替えに向かう背中を見つめていた。
夕食の席は、ピアノの生演奏があるレストランに用意されていた。窓の外には夜の港が広がり、静まり返っている。
穏やかなピアノの調べが流れる中、晏臣は切り分けたラム肉を彼女の前に押しやり、わずかに眉をひそめた。
「夜瑠、怒っているな」
疑問ではなく、確信に満ちた口調だった。
「3回だ。お前は俺のメッセージを3回も無視した」
彼は手を伸ばして彼女の手を握り、じっと見つめ込んだ。「7周年の記念日をすっぽかしたことを怒っているのか?」
夜瑠の手はかすかに震え、心臓を細い針で深く刺されたような痛みが走った。
彼は何もかも分かっていながら、よりによって二人の記念日の当日に、雪乃に向かって片膝をついた。
今さら記念日を持ち出すなど、あまりにも皮肉すぎる。
そもそも二人の間に、本物の結婚など最初から存在しなかったのだから。
彼女は顔を上げ、冷え切って疲れ果てた瞳で彼を真っ直ぐに見据え、はっきりと問い返した。「ならあなたは、私を裏切るような真似をしたの?」
晏臣はテーブル越しに彼女の手を強く握りしめ、声を震わせた。「夜瑠、言ったはずだ。お前は俺の命だと。もし俺がお前を裏切るような真似をしたなら、その時はお前を永遠に失う罰を受けたって構わない」
彼は彼女を見つめ、その眼差しには真摯な光が宿っていた。「だから夜瑠、俺は絶対に、お前を裏切ったりしない」
夜瑠は目を伏せ、ふっと声に出して笑った。
「ええ、分かったわ」
あなたの望む通りにしてあげる。もうすぐ、あなたは私を永遠に失うことになるのだから。
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