冬の夜を越えるピアノの調べ第1話
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神崎夜瑠(かんざき よる)は、桐生家の御曹司が暗がりで密かに育て上げた、一振りの刃だった。
7歳の時に桐生晏臣(きりゅう やすおみ)に拾われ、8歳で刃を握り、15歳になる頃には彼に代わって敵対組織を壊滅させるまでになっていた。
大学受験の日、彼女はたった一人で拉致犯のアジトへ乗り込み、身に17箇所もの刺し傷を負いながらも晏臣を救出した。
それ以来、晏臣は夜瑠をこれ以上ないほど溺愛した。
法定年齢に達するやいなや、半ば強引に彼女の手を引いて籍を入れ、耳元で誓った。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」
傷跡だらけの彼女を、彼は毎晩のようにその腕の中へと抱きすくめた。温かい唇で一つひとつの傷跡をなぞり、激しく抱きしめ合いながら低く囁くのだ。
「夜瑠、お前は誰よりも清らかだ。永遠に俺から離れるな」
彼女はそれを心から信じ切っていた。
彼が外で囲っていた「白鳥」への、プロポーズの現場を押さえてしまうまでは。
彼は完璧に隠し通せていると思い込んでいたのだろう。だが、夜瑠がとっくに彼に内緒で大学へ進学していたことなど知る由もなかった。そして、彼が掌中の珠のように慈しんでいたその女こそが、夜瑠の最も仲のいい同級生だったのだ。
* * *
負傷した足を引きずりながらキャンパスに戻った日、夜瑠は盛大なプロポーズの現場に出くわした。
校門から学生寮へと続く道には白薔薇が敷き詰められ、中央に敷かれたエメラルドブルーのカーペットは、湖面の波光を散りばめたかのように碧く眩い光を放っている。
白鳥雪乃(しらとり ゆきの)は純白のワンピースに身を包み、カーペットの終点で優雅な白鳥のように佇んでいた。
そして片膝をついている男は、海外へ出張に行くと言っていたはずの晏臣だった。
マスク姿の夜瑠は人混みに紛れ、二人が口づけを交わすのを見つめていた。まるで懐に氷の塊を抱え込んだように、骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。
昨夜も彼女と肌を重ね合い、「お前の胸の中で死んでしまいたい」と甘く囁いていた人が、今は真剣な面持ちで別の女性が頷くのを祈り求めている。
ここで初めて彼女は悟った。晏臣は最初から、自分を日の当たる場所に出すつもりなどなかったのだと。
二人の逢瀬はいつも深夜で、その関係が公にされたことは一度もなかった。
3年前、彼女は一度彼の元を去ったことがある。
桐生家や二人の関係を知る周囲の人間は皆、大学にも行っていない天涯孤独の女など、海市の桐生家の御曹司には不釣り合いだと言い放った。
それでも晏臣はあらゆる人脈を駆使し、7日間不眠不休で探し回り、ついに彼女を連れ戻した。
あの時の彼の姿を、彼女は今でも覚えている。死に絶えたような静寂の中に苦痛を滲ませ、震える声でこう言った。「夜瑠、俺を捨てて、どこへ逃げるつもりだったんだ?」
彼は部下に命じて自分自身を99回も鞭で打たせ、彼女を見つめる瞳に光を宿して言った。
「夜瑠、お前を不安にさせた俺が悪い。罰を受けるべきだ」
夜瑠は血まみれになった彼の背中を見て、胸を痛めてボロボロと涙をこぼした。
晏臣が彼女にW国の永住権とプライベートジェットの搭乗証を渡したのは、まさにその時だった。
「夜瑠、俺はW国への入国を生涯禁じられている。もし俺がお前を裏切ったら、永遠にお前に会えない罰を受けてやる」
夜瑠がそれを受け取ると、彼は骨の髄まで溶け合わせるかのように彼女を強く抱き寄せた。「夜瑠、一生これらを使う日は来させない」
だが今、裏切りは残酷なほど明白に目の前に突きつけられている。
ずっと馬鹿を見ていたのは自分だったのだ。
夜瑠はふらふらとした足取りで晏臣のオフィス用邸宅へと向かった。問い詰めるより先に、部屋の中から彼の友人たちの祝いの言葉が聞こえてきた。「晏臣さん、見事美人を射止めましたね。おめでとうございます!」
酔いを帯びていた晏臣の眼差しが、刹那、凍てつくように鋭くなった。
「誰にも一言も漏らすな。もし夜瑠に知られたら……」
グラスが乱暴にテーブルに置かれ、友人たちは口をつぐんだが、それでも恐る恐る尋ねた。「晏臣さん、宗一郎さんが結婚を急かしていますが、夜瑠さんとは本当に婚姻届を出さないんですか?」
夜瑠は全身の血が逆流するような感覚に襲われ、無意識に息を潜めた。
すると晏臣は口角を上げ、一枚の婚姻届受理証明書を放り出した。「祖父さんは雪乃のことがすっかり気に入ってね。代々伝わる家宝まで渡したよ」
夜瑠は呆然とし、耳の奥で激しい耳鳴りがした。
晏臣と雪乃が籍を入れた?
では、自分の手元にある証明書は何なのだ?
友人たちも呆気にとられ、その証明書を手に取ってまじまじと見つめた。「じゃあ、夜瑠さんはどうするんですか?」
晏臣は証明書を金庫にしまい、グラスを揺らしながらしばらくして口を開いた。
「あの時、夜瑠と籍を入れようとしたが、祖父さんが事前に俺の書類に細工をしていてな。本物の手続きなど通るはずもなかったんだ」
彼は淡々と語る。「だから偽物を仕立てて、あいつを言いくるめて本気で惚れ込ませるしかなかった。夜瑠は気性が激しすぎて、桐生夫人には向いていない。俺が裏で可愛がってやれば十分だ」
友人たちの目に複雑な色が浮かんだ。
「晏臣さん、夜瑠さんはかなりの手練れですし、もし彼女に知られて……また離れていったらどうするんですか?」
晏臣の漆黒の瞳が冷たく光った。「なら、永遠に知られないようにすればいい。景太に伝えろ、夜瑠から目を離すなとな」
夜瑠は自嘲の笑みをこぼした。
須藤景太(すどう けいた)に何度も挑発されて傷を負ったのも、すべて晏臣の差し金だった。
どうりで今日、大学へ向かう道中で景太が狂ったように引き止めてきたわけだ。彼を振り切るために、足の怪我がさらに悪化したのだから。
彼はただ、夜瑠が偶然その場を通りかかり、あのプロポーズの光景を目にしてしまうのを恐れていただけなのだ。
心を抉るような真実から立ち直る間もなく、友人の一人が、夜瑠自身も知りたい問いを投げかけた。「晏臣さん、本当はどっちを愛してるんですか?」
晏臣は何かを思い浮かべたのか、その瞳に柔らかな光を宿した。「当然、夜瑠だ。だがこれからの3年間は、雪乃のことも全身全霊で慈しんでやるつもりだ」
彼は指先でグラスの縁をなぞりながら言った。「雪乃は純真そのものだ。まるで18歳の頃の夜瑠のようにな。俺のために一条家に乗り込んだりしなければ、夜瑠も本来ならあんな風だったはずなんだ。
夜瑠をもう一度育て直すことはできない。だから雪乃を育てる。そうすれば、夜瑠に対する心残りも埋まるからな」
友人は黙って酒を煽り、再び尋ねた。「晏臣さん、本音を言ってください。夜瑠さんがあなたを救うために、一条家に乗り込んで過ごしたあの3日3晩のこと……本当はまだ気にしてるんじゃないですか?」
夜瑠の心は、どこまでも深く沈んでいった。
一条家でのあの3日3晩は、確かに悪夢そのものだった。
誰一人として、彼女が体を汚されずに生還したなど信じなかった。晏臣だけは信じると言ってくれた。その後の幾つもの夜、彼は彼女の涙を口づけで拭い、「俺の夜瑠が一番清らかだ」と囁いてくれた。
だが今回、晏臣は何も答えず、ただグラスの酒を一気に飲み干した。
その沈黙こそが、何よりも残酷な事実の黙認だった。
夜瑠は目を閉じ、涙がこぼれ落ちるままに任せた。
彼は彼女を信じてなどおらず、それどころか汚らわしいとさえ思っていたのだ……
晏臣の低く掠れた声が再び響いた。「7日後の結婚式は、夜瑠には伏せておけ。いっそ『不慮の事故』で怪我でもさせて、しばらく病院に寝かせておくのが一番いい」
夜瑠の心の中で張り詰めていた糸が、ついにプツリと切れた。
晏臣の言葉は鋭い刃となって、彼女の心臓の一番深い場所を容赦なく抉った。
彼女の痛みなど、彼にとってはとうの昔に計算ずくの道具となり、彼女を支配するための手段に成り下がっていた。
ブーッ――
スマートフォンに3件のメッセージが立て続けに届いた。
1件目は雪乃からで、婚姻届受理証明書の写真と、嬉しそうなスタンプが添えられていた。
【夜瑠、私、ずっと憧れてた人とついに結ばれたの!ねえ、この証明書、私たちにぴったりだと思わない?】
2件目は晏臣からだった。【夜瑠、会いたいよ。こっちの用事が済んだら、すぐに帰ってお前のそばにいるから】
最後の1件は指導教官の芳賀(はが)先生からだった。【夜瑠さん、本当にW国音楽院からのオファーを辞退するつもりなのか?君の才能を埋もれさせてしまうのはあまりに惜しい。もう一度よく考えてみてほしいんだ】
夜瑠はその証明書の写真と、彼の「会いたいよ」という言葉をじっと見つめた。それはまるで強烈な平手打ちのように彼女の頬を張り飛ばし、これまでの愚かさを容赦なく嘲笑っているかのようだった。
心臓に無数の棘が刺さるような痛みが広がり、指先まで小刻みに震え始めた。
彼女はゆっくりとトーク画面を開き、返信を打ち始めた。
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