冬の夜を越えるピアノの調べ第3話
この話は約2707字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
明らかに、晏臣は勘違いをしていた。
彼が片手を上げて合図を送ると、窓の外に突如として無数の光が灯った。
数万機ものドローンが夜空に舞い上がり、抱き合う男女のシルエットを描き出す。
周囲の人々から驚きと羨望のどよめきが沸き起こる中、晏臣は夜瑠を腕の中に抱き寄せた。
夜空に浮かび上がった光の文字は――【夜瑠、愛してる】
耳元に熱い吐息を吹きかけながら、深く情を込めて愛を告げてきた。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」
夜瑠が空を見上げると、彼女の名を形作っていた文字は次第に輪郭を失い、ぼんやりと「乃」の文字へとすり替わるように滲んで、ゆっくりと夜の闇に溶けていった。
彼女は皮肉げにふっと笑いをこぼした。
ふと視線を戻すと、晏臣の眼差しが全く別の方向へと注がれていることに気づいた。
彼はレストランの片隅の席に、ぽつんと座る人影をじっと見つめていた。雪乃だった。
雪乃のテーブルには二本の空のワインボトルが置かれており、その寂しげな姿は雨に打たれてしおれたスズランのようで、孤独でひどく庇護欲をそそる。
晏臣が夜瑠を握る手に、突如としてギリッと強い力がこもった。
夜瑠が痛みに小さく声を上げて初めて、彼は弾かれたように我に返り、慌てて詫びた。「すまない、夜瑠。会社で急なトラブルがあった。運転手に送らせるから」
夜瑠は全く手をつけていない豪勢なディナーを見つめ、口角に嘲りの笑みを浮かべた。
彼女は街角で車を止めさせ、運転手を帰らせると、自らハンドルを握ってレストランへと引き返した。
遠くからでも、晏臣が力なく崩れ落ちた雪乃を抱き抱え、血相を変えて救急車に乗り込む姿がはっきりと見えた。
車で病院まで後を追うと、晏臣が雪乃を抱えて狂ったように救急窓口へ駆け込み、喉が裂けんばかりの声で叫ぶのを、ただ黙って見つめるしかなかった。
「先生!妻がアルコールアレルギーなんだ、頼む、妻を助けてくれ!」
看護師たちが雪乃をストレッチャーに乗せて救急処置室へ運び込んだ瞬間、晏臣は全身の力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
その姿に、夜瑠の胸はぎゅっと激しく締め付けられた。
まるで、かつて彼女が一条家から命からがら逃げ出してきたあの時のようだった。彼も同じようにパニックに陥り、ふらつく足取りで医師の腕に縋りつき、「夜瑠を助けてくれ、あいつは俺の命なんだ……」と哀願していた。
あまりにも似通った光景。だが、彼の腕の中にいる人間も、口走る名前も、すっかり別の女にすり替わっている。
彼のあの「永遠に愛し続ける」という誓いなど、水泡のように跡形もなく消え去っていた。
雪乃が処置室から運び出されてくると、晏臣はすぐに彼女の手にすがりつき、蒼白な顔で訴えかけた。「雪乃、お前の望むことなら何でも言う通りにする。頼むから、もうあんな真似はしないでくれ」
雪乃は力なく首を横に振り、弱々しく呟いた。「彼女のところへ行ってあげて。私なんて、所詮は部外者なんだから。彼女を愛してるって言ってたじゃない。私の生死なんて、気にしなくていいわ……」
晏臣は慌てて彼女の唇を塞いだ。その眼差しには、夜瑠に向けたことのないような焦燥感が渦巻いている。
「俺たちの間では、あいつの方こそが部外者だ。約束してくれ、二度と自分を傷つけないと」
彼の背後に立ち尽くす夜瑠の心臓は、刃物で何度も何度も切り刻まれるように痛み、呼吸すらまともにできなかった。
ふと、桐生家の本邸での光景が脳裏をよぎる。晏臣の祖父である桐生宗一郎(きりゅう そういちろう)が彼女に罰を下そうとした時、晏臣は彼女を死に物狂いで庇い、目を血走らせて叫んだ。
「夜瑠は俺の命だ!あいつに比べたら、祖父さんだって部外者だ!部外者が、どうして夜瑠に手を出せるんだ!打つなら、俺を打て!」
なんて滑稽なのだろう。あれからどれほどの時も経っていないのに、彼女は彼の言う「部外者」に成り下がってしまった。
重いハンマーで胸を打ち砕かれたような衝撃に、夜瑠はその場に縫い付けられたように動けなくなった。
ちょうどその時、廊下の反対側で小競り合いが起き、若い看護師の手から医療用トレイがガシャンと床に落ちた。
晏臣は咄嗟にそれを足で蹴り飛ばし、雪乃をかすり傷一つ負わせずに守り抜いた。
しかし、薬品の入ったガラス瓶は、寸分違わず夜瑠のすねにまともに直撃した。
夜瑠はよろめいて床に倒れ込み、砕けたガラスの破片が掌に深々と突き刺さる。瞬く間に鮮血が流れ出した。
周囲から悲鳴が上がる。晏臣は振り返って一瞥したが、眉一つ動かさず、財布から小切手を取り出して彼女の足元に投げ捨てると、雪乃を庇うようにして背を向け、立ち去っていった。
夜瑠の目から、ついに大粒の涙が零れ落ちた。
すべては一瞬の出来事だった。
呆然としていた若い看護師がようやく我に返り、慌てて彼女を助け起こして処置室へと連れて行った。
処置室のベッドに座る夜瑠の耳に、看護師たちのひそひそ話が漏れ聞こえてきた。
「桐生社長の奥様って本当に幸せよね。あんなに格好良くて、その上あんなに一途だなんて」
「みんな知らないの?あの人、アレルギーなんかじゃなかったのよ。処置室に入った途端、『夫の愛情を試すための演技だったけど、あそこまでパニックになるとは思わなかった』って笑ってたんだから」
別の看護師が、包帯でぐるぐる巻きにされた夜瑠の左手を見下ろし、同情に満ちた顔でため息をついた。
「本当にとんだとばっちりでしたね。お顔に傷がつかなかったのだけが不幸中の幸いですよ。あんな甲斐性のある良い旦那様に巡り合えなかったのですから、仕方がありませんよね。同じ女ですのに、運命って本当に不公平なものですね」
夜瑠は虚ろな表情のままその会話を聞いていた。全身は氷のように冷え切り、掌の刺すような痛みが、心臓の奥深くまで抉るように突き抜けていく。
彼女は黙ってその小切手をしまい、視線を傍らのトレイへと落とした。
そこには、血に染まった数珠のブレスレットが静かに横たわっていた。
それはかつて、晏臣がわざわざ寺へ出向いて、彼女のために手に入れてきてくれたものだった。
あの時、彼はこう言っていた。「夜瑠、俺の愛がある限り、この数珠がお前を永遠に守ってくれる」
その言葉は今も耳の奥に響いているというのに、彼の心はとうの昔に離れてしまった。そしてその男の念がこもったこの数珠すらも、もはや彼女をわずかばかりも守ろうとはしてくれなかった。
ならば――もう、何もかもいらない。
夜瑠が処置室を後にしたのとほぼ入れ違いに、晏臣が雪乃の薬を交換させるため、看護師を呼びにやってきた。
ふとトレイの上の数珠を視界の端に捉えた瞬間、彼は息を呑み、その目をぎくりと見開いた。
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