何年過ぎても、君とはもう逢えない第1話
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「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」
「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に浮かぶ決定ボタンを迷いなく押した。
「身元変更システムを起動しました。新しい身分への切り替えは一か月後に行われます。マスターはしばらくお待ちください」
「わかったわ」
* * *
「マスター、本当に今の身分を捨てて、別人として生きていくおつもりですか?」
「はい」藤ヶ谷瑞希(ふじがや みずき)は手を伸ばし、空中に浮かぶ決定ボタンを迷いなく押した。
「身元変更システムを起動しました。新しい身分への切り替えは一か月後に行われます。マスターはしばらくお待ちください」
「わかったわ」
瑞希はシステムの案内に従い、新しい身分を選んだ。
システムによれば、この一か月のあいだに彼女は少しずつ今の記憶を失っていき、記憶が完全に消えたとき、今度はその身分の記憶が意識に流れ込んでくるという。
一通りの手続きを終え、瑞希が真っ暗な部屋を出ると、気づけば街の広場に立っていた。
そのとき、広場の大型ビジョンには、阿部浩一(あべ こういち)が全国各地で彼女にプロポーズしている映像が流れていた。
「きゃああ、何この理想すぎるカップル!阿部さん、溺愛しすぎでしょ。さっき数えたんだけど、阿部さんって藤ヶ谷さんを二十一か国も連れて行って、そのたびにプロポーズしてるの!しかも毎回ちゃんと凝った演出つきで、お花も風船も全部そろってるし、何より毎回指輪が特注なんだよ?恋愛ドラマでもここまでできないでしょ?」
「ほんとだよね。阿部さんって本当に藤ヶ谷さんのこと愛してるんだなあ。しかも藤ヶ谷さんを育て上げたのも彼だって聞いたことある」
「阿部社長は藤ヶ谷さんを育てただけじゃないよ、彼女のためなら命だって惜しまないんだから。前に遊びに行ったとき、藤ヶ谷さんがうっかり川に落ちたことがあってさ、そのとき阿部社長、ためらいもなく飛び込んで助けに行ったの。なのに自分が泳げないの忘れてて、結局スタッフに二人まとめて助け上げられたんだって」
「そうそう、それ覚えてる。前に藤ヶ谷さんがインタビューでその話してたよね。阿部社長、そのことがきっかけで水泳まで習いに行ったんだっけ……あはは、ほんと面白すぎる」
たしかに、おかしかった。
瑞希もあのときの騒動を思い出して、思わず笑ってしまった。
けれど笑っているうちに、ふいに涙がこぼれ落ちた。
誰もが知っている。浩一が瑞希を命より大切に想い、彼女のためなら命すら投げ出せることを。
けれど誰も知らない。
浩一が人目を避けるように郊外の屋敷で愛人を囲って、まだ端役ばかりの新人女優を丸一年も住まわせていたことを。
会社の用事だ、残業だと言って帰ってこなかった夜は、数えきれないほどあった。
彼女を一人残して、平気で背を向けたことも、一度や二度ではない。
その間、彼は高瀬美桜(たかせ みお)という女に溺れていた。
彼女の知らない場所で、何度も体を重ねていた。
画面には、浩一が瑞希にした最後のプロポーズが映し出されていた。
それは半月前、エリスランドでのことだった。
浩一は片膝をつき、愛おしさのにじむまなざしで彼女を見つめながら、こう言った。
「これが、俺からの最後のプロポーズだ。エリスランドを選んだのは、この国じゃ離婚が許されないからだ。俺のお前への想いも同じだよ。終わりなんて、絶対に来ない。俺たちは何があっても別れない。瑞希――俺と結婚してくれるか?
誓う。一生、お前を大事にする。誰よりも愛して、ずっと大切に守り抜く。誰にもお前を傷つけさせない。もしこの誓いを破ることがあったら、その時は俺が天罰を受けてもかまわない」
今、この映像を見つめながら、瑞希はただひどく皮肉だと思った。
別の女を愛していながら、どうしてこんなにも心のこもった言葉を、何食わぬ顔で自分に向けて言えたのだろう。
彼は言っていた。
彼女のいない日々は、生きている屍のようだと。彼女がいなければ、自分は狂ってしまう、死んでしまう、生きていけないのだと。
だったら見てみたいと思った。
一か月後、結婚式当日に自分が消えたら、彼は本当に狂うのか、本当に死ぬのか。
本当に天罰が下るのか。
「ねえ、あれって藤ヶ谷瑞希じゃない?」
誰かがそう叫んだ瞬間、人々がいっせいに彼女の方へ押し寄せてきた。
瑞希はトップスターで、ファンも多い。
反応する暇もないうちに、彼女のまわりは何重にも人垣で埋め尽くされていた。
「瑞希さん、サインしてもらってもいいですか?」
「藤ヶ谷さん、ずっとファンなんです!一緒に写真撮ってもらえませんか?」
「押さないでよ!最初に瑞希さんを見つけたのは私なんだから、私が先でしょ!」
浩一はずっと彼女を大切に守ってきた。ここ数年、彼女はひたすら真面目に演技の仕事に打ち込み、バラエティ番組にも出ず、イベントにも出演してこなかった。だから、こんな場所に一人で姿を見せることなど、ほとんどなかった。
こんなにも大勢の人に囲まれ、瑞希は少し戸惑ってしまった。
「みなさん、押さないでもらえますか?サインも写真も、順番にお願いします」瑞希は辛抱強く呼びかけたが、人が多すぎて、彼女の声はまるで届かなかった。
後ろの人たちは必死になって前へ前へと押し寄せ、瑞希は誰かに突き飛ばされて、そのまま地面に倒れてしまった。
「押さないで!瑞希さんが転んだ!」
瑞希は前につんのめるように倒れた。頭を地面に打ちつけないよう、とっさに両手をついて支えたが、よりにもよってその瞬間、周囲の誰かが気づかずに彼女の手を踏みつけた。
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