九十九通の離婚届第3話
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彼を取り合う気もなく、感情を抑えた声で言った。
「悪いけど、私は母親なんて無理。恵さんにやってもらって」
本心で言ったのに、宥一は怒りを引っ込めた。
こちらをちらりと見やってから、冷えきった海鮮おじやの容器を取り出し、テーブルに置く。
「子どもの前でバカなことを言うな。これは俺が作った雑炊だ。わざわざお前に持ってきてやったんだ」
コップに水を注ぐ手が止まり、思わず苦笑がこぼれる。胸の奥がギュッと締めつけられた。
昨夜、恵のインスタを見ていた。
エプロン姿でキッチンに立ち、鍋でおじやをかき回している後ろ姿。
【みんなは痩せてるのが好きだけど、あなただけが私にちゃんと食べなさいって言ってくれる】
照明は暗いのに、あれが宥一だとすぐわかった。
左手の薬指には、まだ私たちの結婚指輪が光っていたからだ。
でも今、その指は何もついていない。
私の視線に気づいたのか、宥一も無意識に空っぽの薬指を見下ろす。
そしてバツが悪そうに表情を歪めて言った。「指輪は恵に貸してる。ちょっと借りて遊びたいって言うから」
なるほど、結婚指輪って貸して遊ぶものなんだ。
私は、悲しさを隠すように笑った。
私の笑顔に触発されたのか、宥一は急に声を荒らげた。
「ただの指輪だろうが。大袈裟にするな。さっさとこのおじやを食べろ。
いいか、素直に言うことを聞け。
それとも、また離婚届が欲しいのか?」
声を潜めて脅すような口調で言いながら、その瞳は自信に満ち溢れていた。
彼はまだ知らない。私がもうサインを済ませたことを。
私はおじやに目を落とした。
一晩放置されて米粒はドロドロに溶けて、あちこちにエビの殻と魚の小骨が浮いている。
「悪いけど、私、海鮮アレルギーなの」
宥一は呆気にとられ、気まずさが顔に浮かぶ。
息子は、構ってもらえなかったことをまだ根に持っているらしい。目を赤くして近寄ってきて、仇敵でも見るような目でにらみつけた。
「アレルギーなんてたいしたことないじゃん。恵さんが言ってたよ、軽いアレルギーなんて死にゃしないって。
わざとらしくして恵さんと張り合ってるだけでしょ。父さん、こいつの言うこと信じちゃダメだよ」
呆然としている私を、宥一がテーブルに押しつけた。
彼の気まずさは怒りに変わり、駄々をこねる子どもを見るような目で言った。
「紗英、いい加減にしろ。
全部、食え」
両頬を掴まれ、冷たいおじやを無理矢理口に押し込まれる。
息子は手を叩いて拍手し、面白そうに笑っていた。
最後のひと口を流し込むと、宥一は手を離し、私の口元を拭って、優しい眼差しで言った。
「これでいいんだ。紗英、もっと素直になれよ」
私は彼を押しのけ、必死に吐き出そうとした。
だがもう遅い。喉が腫れ上がり、呼吸がどんどん苦しくなってくる。
意識が遠のく直前、大きな影と小さな影が、慌ててこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
目が覚めると、既に病室のベッドの上にいた。
消毒液の刺激的な匂いがきついのに、なぜかホッとした。
看護師さんが状況を説明してくれる。
「今回はアナフィラキシーショックでした。ご主人がすぐに病院へ運んでくださったので助かりましたが、もう少し遅れていたら危険でした」
私は顔を逸らして、可笑しくて仕方がなかった。
私がアレルギーだと知っていながら、海鮮おじやを無理やり食べさせたのは、他でもない彼らなのに。
看護師さんは続けて話す。
「ただ、ご主人も不思議ですね。お連れした後、電話がかかってきてそのままお帰りになって、今は連絡が取れないんです。
もしよろしければ、ご主人にご連絡いただけませんか。お支払いの件でお話がありまして……」
少し呆然として、そこでようやく気づく。
私はまだパジャマのままで、財布もスマホも持っていなかった。
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