上場の鐘が鳴った日、彼を愛さなくなった第2話
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私は微笑んで、前へ進み出た。
「ねえ、綾人」
彼の足が止まり、こちらを振り返った。
「どうした?」
「私へのプレゼントは?」
「なんの話だ」
覚えていないらしい。
「指輪よ」
彼は一瞬固まったが、真っ先に桃子の方を見た。
私はまた笑った。
「エレベーター、来たよ」
彼は適当に相槌を打つと、桃子を連れて逃げるように立ち去り、そのまま私の視界から消えていった。
5年前、私は彼に、いつ私と結婚してくれるのかと尋ねたことがある。
彼は私の髪をくしゃりと撫で、まっすぐな目で言った。
「会社が上場する日、絶対プロポーズする。お前を世界一幸せな女にしてやる」
けれど、指輪もないのに、どうやってプロポーズするというのだろう。
私は1本の電話をかけた。
「あの野外ケータリングの件、受けることにするわ」
電話口の声が弾んだ。
「よかったー!3年口説き続けて、やっと首を縦に振ってくれたな!」
何かに思い至ったのか、電話の向こうの声がふと尋ねた。
「でも今年、綾人くんと結婚するんじゃなかったのか?」
私は誰もいない家の中を見渡し、首を振った。
「……もうしないわ」
翌朝、目を覚ますと、綾人はすでに出勤していた。たった一晩帰ってきただけなのに、家中に彼の痕跡が散らばっていた。
浴室には脱ぎっぱなしの服。食卓には飲み残したコーヒーカップ。玄関には昨夜脱いだ靴下。
私はそれらをひと目見ただけで、自分では手を付けず、家事代行サービスを頼んだ。
やってきた女性はてきぱきと働き、30分もかからずに全部片付け、ついでに朝食まで用意してくれた。
「奥様、今度からもこういうご用があれば、ぜひまた呼んでくださいね」
「奥様じゃないわ」
「え?」
彼女はおずおずと言い直した。
「……ええと、荒木さん?」
「ええ。これから5日間、同じ時間に来てもらえる?30分だけでも、1日分のお給料は払うわ」
彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。
「はい、喜んで!」
彼女が帰った後、私は荷造りを始めた。すると、ナナが餌用のボウルをくわえてきて、私のスーツケースの中に放り込んだ。舌を出し、まるで笑っているような顔をする。
「わん!わん!」
私はその頭を撫でてやった。
「よし、一緒に連れて行くよ」
ナナは今年で6歳。私が流産したあの年、綾人が贈ってくれた犬だった。
「俺がいない時は、ナナにお前のそばにいてもらう」と彼は言っていた。
綾人はいくつも嘘をついてきたけれど、これだけは、嘘じゃなかった。なぜなら結局、ずっと私のそばにいてくれたのは、ナナだけだったから。そして、私が連れて行きたいと思うのも、ナナだけだった。
夕方6時、スマホが鳴った。綾人からだった。
「夕飯は俺の分はいらない。会食があるから」
私はテーブルの上のデリバリーに目をやり、適当に返した。
「わかった」
「あと、今日はお前の父さんの誕生日だろ。電話くらいしてやれよ」
私は箸を止めた。
「いつからそんなに仲良くなったの?」
「そんなことどうでもいいだろ。商売の世界に永遠の敵なんていない。頼むよ、俺の顔に免じて」
私が断る間もなく、電話は一方的に切られていた。
まるで、私が彼を愛するあまり、父への恨みを手放すはずだと信じ切っているかのように。
たしかにあの頃、私は彼を愛していた。けれど今は、もう違う。
私はスマホを置き、がつがつと食べ続けた。彼の言葉など、気にも留めなかった。
10分後、画面がまた光った。今度は桃子からだった。
数十秒の動画が送られてきていた。
父の誕生日の家族会食に、なぜか綾人までいた。動画の中で、彼は桃子の隣に座り、料理を取り分けていた。
彼女の皿が空くたびに、好みを知り尽くしているように、さりげなく次のひと口を添えてやっていた。
彼が私にそうしてくれたことは、一度もなかった。
すると、父は冗談めかして言った。
「娘も年頃になると、親より恋人か。こりゃ、うちにもそのうちめでたい話がありそうだな」
綾人はそれを否定しなかった。
続けて、桃子からメッセージが届いた。短い一文だった。
【お姉ちゃんじゃ、あの人を幸せにできないよ】
私は笑い、一文字ずつ、丁寧に、まるで祈るように打ち込んだ。
【うん。だから、あげる。欲しい?】
【欲しい】
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