メイド扱いされた私が去った後、坊ちゃんが狂った第1話
この話は約2427字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
祖母の病気を治すため、私・浅草詩織(あさくさ しおり)は自分自身を柳井家に売り、柳井家の御曹司である柳井銘也(やない めいや)の使用人となった。彼のためなら、何でもした。
幼い頃は、彼の試験でカンニングを手伝い、学校をサボれば身代わりになって叱られた。
大人になってからは、彼の身の回りの世話をする専属秘書となり、生活の一切を取り仕切るだけでなく、彼の欲望をぶつけるための道具にさえなった。
ある拉致事件で、私は命懸けで銘也を救った。
すると彼は私の顎を掴み、低い声で言った。
「今日から、お前は俺の犬じゃない。これからは……妹と呼ぶ」
その日を境に、私は初めて銘也から、一人の人間として扱われるようになった。
だが、彼の本命彼女である周防麻沙美(すおう まさみ)が海外から帰ってきた。
空港で、傍若無人のように抱き合い、互いを身体の奥まで溶かしてしまいそうなほど激しく口づける二人を見て、私は悟った。
もう、ここを離れる時が来たのだと。
けれど、本当に私が去ったその日から、銘也は、まるで狂ったように、世界中を探し回ることになった。
* * *
「詩織、こっちは周防麻沙美。高校時代からの親友だ」
銘也は車に乗り込むなり、私に麻沙美を紹介した。
口では「親友」と言っているだけなのに、その声音には親しさが滲み出ていた。
私は目を伏せ、「親友」という言葉を何度も胸の中で噛みしめる。
ただ、口の中に苦い味が広がっていくような気がした。
「はじめまして、浅草さん。銘也からあなたの話を聞いてたの。やっと会えたわね」
麻沙美は表面上は挨拶をしているものの、その口調には明らかな挑発が含まれていた。
銘也が、彼女に私の話を?
きっと、ろくな話ではない。
そうでなければ、さっき私を上から下まで値踏みするように眺めたあと、私が車のドアを開けてあげたとき、鼻で短く笑ったりするだろうか。
彼女が何を言いたいのかは分かっている。
要するに、銘也の犬っころにすぎない私なんかに、彼女がわざわざ挨拶する手間をかけるのも馬鹿馬鹿しい、ということだ。
「はじめまして、周防さん」
私は小さな声で答えた。
そして、彼女の顔は見ず、バックミラー越しに銘也を見た。
私の声にも表情にも、ほとんど感情を乗せなかった。
「どこへ行きますか?」
銘也はそんな私を見て、一瞬戸惑ったように固まった。
少し迷ったあと、ようやく口を開いた。
「まずはうちに戻ろう。麻沙美は海外から帰ってきたばかりで、まだ泊まるところがないんだ」
そう言った銘也の顔はわずかに赤らんでいた。
そして、横目でこっそり麻沙美を見る。
その様子を見ていると、彼の本当の目的を疑わずにはいられなかった。
けれど、私は知っている。
さっき空港でトイレから戻ってきた私は、搭乗ロビーで傍若無人に熱烈な口づけを交わす二人の姿を目にした。
私が今まで見たことのない、銘也の姿だった。
その瞬間、全身の血が凍りついたような気がした。
私はぼんやりと胸元に手を当て、深く息を吸い込んで痛みを押し殺した。
そうだ。
考えてみれば、私はこんなにも名ばかりの存在だ。
「妹」という肩書き以外、彼のそばにいるためのまともな身分すら持っていない。
そんな私に、どうして彼が一途でいてくれることを望めるだろう。
「主寝室を片付けましょうか?」
家に着くと、私は自分の役目を果たすように麻沙美の荷物を中へ運び入れ、それから小さな声で尋ねた。
「その……昨夜……」
銘也は私の言葉を聞いて、今になって思い出したように一瞬固まった。
そして、頷く。
「言われるまで忘れてた。きれいに片付けておいてくれ」
私は小さく返事をし、主寝室のドアを開けた。
部屋のカーテンは半分閉じられ、ベッドの上は乱れたままだった。
そこには、昨夜の私たちの親密さを物語る痕跡が、すべて残されていた。
私は心の中で、かすかに自嘲した。
見てごらん、詩織。昨日のあなたは、まだ彼が自分に気持ちを抱いていると思っていたよね。何をそんなに都合よく思い込んでいたの?
あの拉致事件で、命懸けで銘也を救って以来、私は正式に彼のベッドパートナーになった。
彼は「お前がそばにいないと眠れない」と言っていた。
でも今は、麻沙美がそばにいる。きっと、もう眠れるのだろう。
なら私も、そろそろ身を引くべきなのだ。
シーツを取り替えていると、麻沙美が部屋に入ってきた。
彼女は部屋に残る痕跡など気にも留めない様子で、私を見ながら嫌味たっぷりに口を開いた。
「あなたって本当に物分かりがいい。これからは銘也が私のものになるって、ちゃんと分かってるんだね」
布団を畳んでいた私の手が、一瞬止まった。
けれど、何も言わない。
それでも麻沙美は続けた。
「はっきり言っておくわ。銘也を見るときのその目、少しは控えなさい。そうじゃないと、ただじゃ済まないからね。
彼は私だけのもの。昔のことは気にしない。でもこれからは、彼に他の女なんて一人も近づけさせないから」
私は拳を握りしめた。
数秒黙ったあと、ようやく口を開いた。
声は少し掠れていた。
「それなら……おめでとうございます」
あまりにも平静な私の反応に、麻沙美は予想を裏切られたようだった。
しばらく呆然としていたが、やがて羞恥と怒りが入り混じったように逆上し、凄むような口調で脅しを口にした。
「どういう意味?信じてないの?私が本気になれば、今すぐ銘也にあなたをこの家から追い出させることだってできるのよ!」
そう言いながら、彼女は突然私に近づき、声を落とした。
「認めなさいよ。あなたは所詮、銘也のただの犬なんだから」
私は反射的に眉をひそめ、手を伸ばして彼女を押しのけた。
「どいてください。邪魔です!」
次の瞬間、麻沙美の身体が、突然後ろへ倒れた。
そして、悲鳴が響き渡った。
私は呆然と立ち尽くし、自分の手を見つめた。
「どうした?何があったんだ?麻沙美!」
階下にいた銘也が物音を聞きつけ、駆け上がってきた。
そして、部屋の中の状況を目にした瞬間、すぐに私を怒鳴りつけた。
「お前!いったい何をするつもりだ?」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)