ホワイトデーの求婚は、嘘だった第2話
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手術は三日後に決まった。
炎症を抑え、点滴で体の状態を整えてからでなければ、手術はできないと医師に告げられた。
美咲はずっとそばにいてくれた。目は赤く、ほとんど眠っていないのが分かる。
「少し寝て。病院の外のことは、私が何とかするから」
私は首を振った。
「発表会は……?」
美咲は答えなかった。
それだけで、結果は分かった。
そのとき、スマホが震えた。
直哉からだった。
私は出なかった。
けれど、すぐにまた鳴る。三度目の着信で、美咲が代わりに通話をつなぎ、スピーカーにした。
「綾乃、いい加減にしろよ」
直哉の声には、苛立ちがにじんでいた。
私は何も言わない。
「結愛は一晩中泣いてたんだぞ。お前がアレルギーを起こすなんて、本当に知らなかったって言ってる。
今すぐあの投稿を消せ。それから謝罪の動画を上げろ」
美咲は呆れたように笑った。
「赤坂社長。綾乃がどこにいるかも知らずに、よくそんなことが言えますね」
直哉は少し黙った。
「どこって……どうせ、俺が迎えに来るのを待って、どこかに隠れてるだけだろ」
美咲の声から温度が消えた。
「病院です。お腹の子も危ない状態でした」
電話の向こうが、ふっと静かになる。
けれど次に返ってきた声には、心配の色などなかった。
「美咲さん、そうやって大げさに言うのはやめてくれ。綾乃はすぐ子どものことを持ち出す」
私は天井を見つめたまま、妊娠が分かった日のことを思い出していた。
あの日、直哉は私を抱き上げて、嬉しそうに笑った。
「綾乃、俺たち、本当に親になるんだな」
そのときの私は、本気で信じていた。
直哉も、この子を待ち望んでくれているのだと。
けれど今なら分かる。
――人は変わるのだ。
それとも、変わったわけではなく、私には彼の本性が見えていなかっただけなのかもしれない。
結愛が戻ってきて、ようやくそれに気づいただけだった。
電話の向こうから、結愛の声が割り込んできた。
「直哉、もういいよ。綾乃を責めないで。全部、私が悪いの。私なんか、戻ってこなければよかった」
か細い声だった。
まるで、自分こそが一番傷ついているとでも言うように。
直哉はすぐに声をやわらげた。
「結愛のせいじゃない。そんなこと言うな」
けれど、私に向ける声は違った。
「綾乃、聞こえただろ。結愛はここまで言ってくれてるんだ。お前はまだ何が不満なんだよ」
私はかすれた声を絞り出した。
「直哉」
直哉は一瞬、黙った。
「やっと喋る気になったか」
「別れよう」
電話の向こうが、しんと静まり返る。
数秒後、直哉が鼻で笑った。
「またそれか。
綾乃、いい加減大人になれよ。
お腹には俺の子がいる。新居の内装ももうすぐ終わる。ウェディングフォトだって撮っただろ。
今さら別れるなんて言って、俺を試してるつもりか」
私は言い返さなかった。
「佐伯先生の連絡があるはずよ」
直哉の声が、そこで少し低くなった。
「どういうことだ」
「新居にするはずだったマンション、競売にかけることにしたの」
「は?ふざけるな。あれは俺の家だぞ」
私は口元だけで笑った。
「頭金は私が出した。借用書にも、担保の書類にも、あなたのサインがある。
貸した分を、返してもらうだけよ」
電話の向こうで、何かが床に落ちて割れる音がした。
結愛が小さく悲鳴を上げる。
「直哉!」
直哉は押し殺したような声で言った。
「綾乃、いい加減にしろ。金なら払う。家を競売に出すなんてやりすぎだろ」
私は静かに返した。
「やりすぎじゃない。返してもらうだけよ」
電話越しに、直哉が息を詰めたのが分かった。
「俺が本気でお前と別れられないとでも思ってるのか?」
以前なら、その一言だけで胸が潰れそうになっていた。
けれど今は、何も感じない。
私は電話を切り、そのまま着信拒否にした。
美咲が私を見ていた。目はさっきよりも赤くなっている。
「綾乃、やっと目が覚めたのね」
私は答えず、お腹に手を当てた。
かすかな動きが、まだ伝わってくる。
この子は、まだ生きている。
けれど私はもう、この子を守れない。
その夜、直哉が病室に現れた。
片手には病人食。顔色はひどく悪かった。
ドアが開いたとき、私はベッドにもたれて、競売手続きの資料に目を通していた。
私の顔を見るなり、直哉は入口で足を止めた。
「本当に入院してたのか」
私は顔を上げなかった。
直哉はお粥をサイドテーブルに置いた。
「医者に聞いた。子どもはまだ助かる可能性があるって。
簡単に諦めるなんて言うな」
私は小さく笑った。
「どの医者に聞いたの?」
直哉が眉を寄せる。
「どういう意味だ」
私は診療記録を差し出した。
「見て」
直哉は診療記録を受け取った。
ざっと目を走らせた途端、表情がこわばる。けれどすぐに、何も見なかったような顔でテーブルへ戻した。
「医者は大げさに言うんだよ。少し休めば落ち着く」
私は直哉を見た。
「あの山で私が死んでたら、どうするつもりだったの?」
直哉は一瞬、言葉に詰まった。
「あんな雨になるとは思ってなかった。ただ、少し頭を冷やしてほしかっただけだ。
俺だって、そこまでひどいことをするつもりはなかった」
胸の奥が、すっと冷えた。
山道が危ないことも、私が妊娠していることも、直哉は分かっていた。
それでも、私は死なないと思ったのだ。
本気で離れていくはずがないと思ったのだ。
目を覚ましたら、また子供のことを思って自分を許す。
直哉はそう決めつけていた。
直哉はベッドの端に腰を下ろし、私の頬へ手を伸ばした。
私は顔を背けた。
触れる前に、その手が止まる。
「綾乃、もうやめよう。これからは結愛に会わせない。
退院したら、籍を入れよう」
私は聞いた。
「じゃあ、あの投稿は?」
直哉は一瞬黙った。
「消せ」
私は彼を見た。
直哉は、私の目を見なかった。
「結愛のキャンプ場は始まったばかりなんだ。あんな投稿を残されたら、客が来なくなる。
お前は顔が知られてるだろ。謝れば、ネットなんてすぐ別の話題に流れる」
私は笑った。
「そう。私が毒を盛られて流産しかけたことも。
あなたに山へ置き去りにされたことも、謝れば済む話なの?」
直哉は顔をしかめた。
「そういう言い方をするな。誰も毒なんか盛ってない。俺だって、お前を傷つけるつもりはなかった」
私はテーブルの上のお粥を、容器ごと床に押し落とした。
熱い中身がこぼれ、床に広がる。
直哉が勢いよく立ち上がった。
「綾乃!」
私は顔を上げ、彼を見た。
「出ていって」
七年一緒にいて、私が直哉にそんな言い方をしたのは初めてだった。
直哉は言葉を失った。
私はナースコールを押した。すぐに看護師が入ってくる。
「警備の方を呼んでいただけますか」
直哉の表情がみるみる険しくなった。
「本気でそこまでするのか」
私はもう、彼を見なかった。
警備の人に退室を促されると、直哉は入口で足を止め、低い声で言った。
「綾乃、お前は必ず後悔する」
私は目を閉じた。
後悔なら、もうしている。
あなたを愛してしまったことを。
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