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ホワイトデーの求婚は、嘘だった第3話

この話は約2373字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

翌日、新居にするはずだったマンションが、競売物件として掲載された。

それから直哉からの電話は、朝から夜までかかってきた。ひとつ着信拒否にすれば、すぐに別の番号。最後には、結愛の番号からメッセージが届いた。

【綾乃、怒ってるのは分かるよ。でも、あの家は直哉にとって大事なものなの。そこまでするのは、さすがにひどいよ】

その文面を見て、思わず笑いそうになった。

美咲がスマホを取る。

「言い返していい?」

私は首を振った。

「必要ない」

ほどなくして、今度は結愛から音声が届いた。

流れてきたのは、甘ったるいほどやわらかい声だった。

「綾乃、本当に傷つけるつもりなんてなかったの。

あのスープ、私も飲んだの。私は何ともなかったから、そんなに大変なことになるなんて思わなくて。

綾乃が私を憎むなら、私は引くよ。でも、直哉まで追い詰めないで」

私は音声を保存し、そのまま宗一郎へ転送した。

【これも証拠に入れてください】

美咲が親指を立てた。

「いい判断」

私はかすかに口元を緩めた。

けれど次の瞬間、お腹の奥がぎゅっと痛む。

体が勝手に丸まり、冷たい汗がにじみ出た。

看護師が駆けつけ、私はそのまま検査へ回された。

結果を確認した医師は、厳しい表情で口を開いた。

「これ以上は待てません。遅れるほど、大量出血の危険が高くなります」

診察室の椅子に座ったまま、私は冷えきった手を握りしめた。

「今日、できますか」

医師が私を見た。

「本当に今日でいいんですね?」

私はうなずいた。

「はい」

手術の前に、同意書と緊急連絡先の確認が必要になった。

同意書には、私自身が署名すればいい。

ただ、術後の説明や万が一の連絡のために、家族か、それに代わる人を一人立ててほしいと病院側は言った。

両親はとっくに亡くなっている。

祖父母も、もういない。

この数年、私は直哉を家族のように思ってきた。

けれど今、その欄に直哉の名前を書くことはできなかった。

「私ではだめですか」

美咲が言った。

医師は少し困ったように答えた。

「付き添いはしていただけます。ただ、今回の手術はリスクがありますので、緊急時に連絡が取れて、ご本人との関係を確認できる方にも説明を受けていただきたいんです」

美咲は黙った。

私はペンを握った。

手が震えて、うまく力が入らない。

そのとき、廊下のほうから男の声がした。

「俺が同席します」

顔を上げた瞬間、息が止まりかけた。

黒いコート姿の男が、入口に立っていた。

手には書類を持っている。

「……怜司?」

彼は私の前まで来ると、少しだけ表情を和らげた。

「久しぶりだな、綾乃」

黒江怜司(くろえ れいじ)は、母の親友の息子だ。

子どもの頃、彼はうちの隣に住んでいた。

両親が事故で亡くなったあと、葬儀を手伝ってくれたのは怜司の母だった。

その後、黒江家は海外へ移り、私たちの連絡は途絶えた。

まさか、こんな形で再会するとは思わなかった。

美咲が声を落とす。

「綾乃の……?」

怜司は医師に書類を差し出した。

「親族ではありません。ただ、昔から家同士の付き合いがあって、母が綾乃の緊急連絡先になっていました。

今は、その連絡先を俺が引き継いでいます。確認書類と委任状もあります」

怜司は一度、私を見た。

「手術の説明には、俺も同席します」

医師は書類を確認し、ようやくうなずいた。

「分かりました」

怜司はペンを取った。

「綾乃、本当にいいんだな?」

「うん」

怜司は何も言わずに、名前を書いた。

「分かった。そばにいる」

その一言で、こらえていたものが込み上げた。

直哉も、妊婦健診についてきてくれたことはある。

けれど診察室でも、彼はいつも結愛にメッセージを返していた。

医師に「心拍は正常です」と言われたとき、私は泣きそうなくらい嬉しかった。

それなのに直哉は、スマホから目を離さないまま言った。

「結愛、胃が痛いらしい。ちょっと行ってくる」

何度も愛していると言われるより、今の私には、ただそばにいると言ってくれる一言のほうがずっと重かった。

手術室へ向かう直前、直哉が病院に駆け込んできた。

どこで聞きつけたのか、顔から血の気が引いている。

「綾乃!」

直哉は看護師を押しのけるようにして、私のストレッチャーをつかんだ。

「そんなこと、させない」

私は彼を見た。

「離して」

直哉の目は赤かった。

「俺の子だろ。お前ひとりで勝手に決めるなよ」

私は笑った。

「私を山に置いていったとき、この子のことは考えなかったの?」

直哉は言葉に詰まった。

「だから、わざとじゃないって言ってるだろ。こんなことになるなんて思わなかったんだ」

私は直哉を見た。

「あなたって、いつもそう。

何が起きても、そんなつもりじゃなかった、で終わらせる。

私が本気で離れるなんて、思ってもみなかったんでしょう」

直哉は、何も言い返せなかった。

怜司が前に出て、直哉の手をストレッチャーから引きはがした。

「離せ」

直哉が怜司をにらむ。

「お前、誰だよ」

怜司はまっすぐ直哉を見返した。

「綾乃の付き添いだ」

直哉は馬鹿にしたように笑った。

「付き添い?俺は綾乃の恋人で、この子の父親だぞ」

怜司は一歩も退かなかった。

「今さら名乗る資格があるとは思えない」

直哉の表情が怒りに変わる。

「綾乃、お前、こいつのために子どもを堕ろすのか?」

私は静かに息を吐いた。

こんなときまで、直哉は私を責める理由を探している。

自分のせいだとは、絶対に認めない。

私が離れていくのも、別の男のせいにする。

私は看護師を見た。

「中へお願いします」

それでも直哉は、まだストレッチャーに手を伸ばそうとした。

次の瞬間、怜司の拳が直哉のみぞおちに入った。

直哉は痛みに体を折る。

怜司はストレッチャーの前に立ち、低い声で言った。

「もう一度触れたら、ただじゃ済まない」

手術室の扉が、ゆっくり閉まっていく。

最後に見えた直哉は、廊下に立ち尽くしていた。

その顔には、初めてはっきりと焦りが浮かんでいた。

でも、もう遅い。

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