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ホワイトデーの求婚は、嘘だった第1話

この話は約3885字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

ホワイトデーの前夜。

妊娠五か月の私、夏川綾乃(なつかわ あやの)は、恋人の赤坂直哉(あかさか なおや)から「ちゃんとプロポーズしたい」と告げられた。

胸を弾ませて向かったのは、直哉が予約した山あいのペンション。

けれど着いてみると、そこは直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めたキャンプ場だった。

夕食のとき、結愛はきのこのスープを出してきた。

「妊婦さんには栄養があるのよ」

そう笑って、私に勧めた。

それを口にした私は、吐き続けて脱水を起こし、病院へ運ばれた。

顔中に赤い発疹が出て、間近に控えたコスメ発表会は中止。

高額のキャンセル料や違約金まで発生し、私は一気に追い詰められた。

マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、私の代わりにSNSで結愛のキャンプ場の利用を控えるよう呼びかけてくれた。

それを知った直哉は、激怒した。

「離婚して一人でやり直そうとしている結愛を、そこまで追い詰める必要があるのか」

そう言って、私を責めた。

ホワイトデー当日、直哉は私を車に乗せ、結愛に謝りに行かせると言った。

けれど車が止まったのは、キャンプ場ではなく、山の中腹だった。

直哉は私のバッグとスマホを奪い、ぬかるんだ山道の脇に、私ひとりを置き去りにした。

「ここから歩いて行って、結愛に謝ってこい」

雨はどんどん強くなった。

私はお腹をかばいながら泥道で何度も転び、ズボンの裾は血で染まった。

このまま夜を越せないかもしれない。

そう思ったとき、山道を見回っていた管理人が、私を見つけてくれた。

救急車の中で、直哉から届いたボイスメッセージが再生された。

「放っておけ。どうせ芝居だ。

腹があれだけ大きくなって、今さら別れ話で俺を脅せると思ってるのかよ。

ホワイトデーに少し思い知らせただけだ。自分が結愛より上だなんて勘違いされちゃ困るからな」

私は再生を止めた。

そして、震える手で手術同意書に名前を書いた。

* * *

私の名前は、夏川綾乃(なつかわ あやの)。

ホワイトデーは、本来なら赤坂直哉(あかさか なおや)が私にプロポーズしてくれるはずの日だった。

前の晩、直哉からメッセージが届いていた。

【明日、サプライズを用意してる】

それだけでも胸が高鳴ったのに、続けて届いた一文で、私はすっかり舞い上がってしまった。

【綾乃と赤ちゃんを、ちゃんと家族として迎えたいんだ】

私はスマホを握りしめたまま、しばらく頬が緩みっぱなしだった。わざわざゆったりした白いワンピースを選んだのも、妊娠五か月のお腹を少しでも目立たせないためだ。

この日が、人生でいちばん幸せな一日になる。

そう信じて疑わなかった。

けれど、山に着いた私を待っていたのは、プロポーズではない。

直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めるキャンプ場の、プレオープンだった。

直哉の言うサプライズは、五か月のお腹を抱えた私を連れてきて、結愛のキャンプ場の宣伝役にすること。

夕食の時間になると、結愛がきのこのスープを運んできた。

その顔には、優しい笑みが浮かんでいる。

「綾乃、地元の人にわざわざ聞いたの。これ、妊婦さんにもいいんだって」

私はきのこが苦手だった。

直哉は私の隣に座り、スープを一杯よそって私の前に置いた。

「結愛が午後ずっと準備してたんだ。せっかくなんだから飲めよ」

私は飲んだ。

半分も飲まないうちに、胃の奥が焼けつくように熱くなっていく。

トイレに駆け込んだ私は、喉の奥に血の味が広がるまで吐き続けた。やがて、顔中に赤い発疹まで浮かび始める。

予定していた新作コスメの発表会は中止。

ブランド側からは、代理人弁護士を通じて正式に抗議を受けた。マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、怒りで声を震わせていた。

「下処理もろくにしていない野生のきのこを妊婦に食べさせるなんて、下手したら命に関わるのよ!」

美咲は、私のSNSで結愛のキャンプ場を名指しし、利用を控えるよう注意を呼びかけてくれた。

その夜。

病室のドアが、勢いよく開いた。

直哉はベッド脇まで来るなり、スマホを私の布団の上へ投げつけた。

私の具合も、お腹の子のことも、直哉はひと言も尋ねない。

「綾乃、これで気が済んだか。

結愛のキャンプ場、ネットで散々叩かれてる。もう営業どころじゃないんだぞ」

喉はまだひりついていて、声がうまく出ない。

「……結愛の出したものを食べたから、こうなった」

直哉は鼻で笑った。

「野生のものだろ。少し合わなかったくらいで、そこまで大ごとにする必要あるか?

結愛は離婚して、やっと立ち直ろうとしてるんだぞ。始めたばかりのキャンプ場まで潰して、何がしたいんだよ」

私は直哉を見た。

七年も一緒にいた相手なのに、その瞬間、ひどく遠い人に思えた。

私は人前に立つ仕事をしている。

顔に発疹が出ることが、どれだけ大きなことか。直哉なら分かっているはずだった。

妊娠してから、体調だってずっと不安定だった。

この発表会のために、半年かけて準備してきた。

それなのに直哉が心配しているのは、私でも、お腹の子でもない。

叩かれている結愛のことだけだった。

ホワイトデー当日、直哉は私に、結愛のところへ謝りに行けと言ってきた。

私は拒んだ。

次の瞬間、身体がふわりと浮く。

直哉に抱え上げられ、そのまま車へ押し込まれた。

乱暴な揺れに、お腹の奥がきゅっと痛む。

「お願い、もう少しゆっくり……」

それでも直哉は、速度を落とさない。

車が山の中腹で止まった瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。

「直哉、何する気?」

直哉は答えない。シートベルトを外し、助手席側へ回ってドアを開ける。

バッグもスマホも、まとめて奪われた。

「結愛のキャンプ場をめちゃくちゃにしたんだ。

歩いて行け。本人の前で謝ってこい」

思わず自分の耳を疑った。

「私、妊娠五か月なの」

直哉は眉ひとつ動かさない。

「だから途中まで乗せてきてやったんだろ。全部歩かせるよりマシだ。

綾乃、お前、昔はこんな女じゃなかったよな。いつからそんなに性格が悪くなったんだ」

ドアが閉まる音が、山道に響いた。

テールランプはすぐに、木々の向こうへ消えていく。

雨は突然だった。

土の山道はみるみるぬかるみ、踏み出すたびに泥が跳ねる。

私はお腹をかばいながら、一歩ずつ前へ進んだ。

最初に足を滑らせた拍子に、膝を石に打ちつける。

立ち上がろうとして、また滑った。

二度、三度。

泥に手を突いた瞬間、指先に鋭い痛みが走った。爪がめくれているのが分かる。

脚の傷から雨に薄まった血が流れ、ズボンの裾に赤く滲んでいった。

泥の中に倒れ込んだまま、私は直哉の名前を呼んだ。

返事はない。

どれくらい経ったのか分からない。

雨音の向こうから、誰かの声と懐中電灯の光が近づいてきた。

山道を見回っていた管理人だった。

担架に移されたときには、意識はもうほとんど残っていなかった。

救急車の中で、管理人が美咲に電話をかけてくれた。

スマホは、沢のそばの泥の中から拾い上げられた。

画面は割れていたが、まだ電源は入る。

直哉からの音声メッセージが、何件も届いていた。

美咲がひとつ再生する。

「放っておけ。どうせ芝居だ」

直哉の声だった。

「腹があれだけ大きくなって、今さら別れ話で俺を脅せると思ってるのかよ。

ホワイトデーに少し思い知らせただけだ。自分が結愛より上だなんて勘違いされちゃ困るからな」

救急車の中が、しんと静まり返った。

管理人は険しい顔で黙り込み、美咲は目を赤くして私を見た。

「綾乃……」

私は泣かなかった。

ただ手を伸ばし、再生を止めた。

病院に着くと、すぐに検査へ回された。

結果を確認した医師の声は重かった。

「夏川さん、胎児の状態がかなり不安定です」

差し出された検査結果の文字は、うまく頭に入ってこない。

ただ、いちばん下の一文だけが目に焼きついた。

妊娠継続は困難。人工妊娠中絶を要する可能性あり。

胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。

お腹の下のほうに、まだ鈍い痛みが残っていた。少し動くだけで、奥までずんと響く。

「手術をしなかったら、どうなりますか」

医師はすぐには答えなかった。

「胎児の心拍が不安定な状態です。お腹の中で、赤ちゃんがかなり苦しんでいる可能性があります。

食中毒に、強いアレルギー反応、低体温。そこへ転倒の衝撃も加わっています。子宮の収縮も続いていますし、胎盤が一部はがれかけている可能性も否定できません。

このまま妊娠を続けるのは、赤ちゃんにとっても、夏川さんにとっても危険です。最悪の場合、大量出血につながるおそれがあります」

私は手の甲に残った点滴の跡を見つめた。

しばらくして、顔を上げる。

「……同意書にサインします」

医師は静かにうなずいた。

震える手でペンを握る。

指先にうまく力が入らない。

それでも私は、署名欄に名前を書いた。

その瞬間、七年続いた恋も終わった。

署名を終えると、私は弁護士の佐伯宗一郎(さえき そういちろう)に電話をかけた。

「佐伯先生。新居にするはずだったマンションの件、競売の申立てを進めてください」

電話の向こうで、宗一郎が一瞬黙った。

「夏川さん、本当に進めてよろしいんですね?」

「はい」

あのマンションは、登記上は直哉の名義になっている。

けれど頭金は、両親が交通事故で亡くなったあと、私に支払われた賠償金から出したものだった。

それだけではない。

直哉の起業資金として、私はさらにまとまった額を貸している。

借用書には、直哉本人の署名があった。

その担保に、あのマンションも入れてある。

「これがあれば、お前も安心だろ」

その言葉を、私は疑わなかった。

まさか本当に、この書類を使う日が来るとは思っていなかった。

「できるだけ早く、競売にかけてください」

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