ブサイクの仮面、真実の顔と届かぬ愛第1話
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界隈では、楠瀬夏生(くすのせ なつき)はちょっとした有名人だった。もっとも、良い意味ではない。
分厚い前髪で顔の半分を覆い隠し、瓶底のような黒縁眼鏡をかけている。肌にはいつもくすんだファンデーションを厚塗りし、色の濃い口紅でわざと唇の輪郭を不格好に描く。
そんな夏生を、街ですれ違う人がわざわざ振り返って見ることはまずなかった。
けれど誰も知らない。それが夏生自らが選んだ「醜さ」だということを。
きっかけは母だった。
母はかつて評判の美人だった。父が猛烈に口説き落として嫁にしたものの、結婚して3年も経たないうちに、父が浮気を繰り返すのが日常茶飯事になっていた。悲しみは絶望に変わり、やがて心を病んだ母は、そのまま逝ってしまった。
死の床で、母はまだ10歳だった夏生の手を握りしめた。幼いながらすでに美貌の片鱗を見せ始めていた顔を見つめ、残された力を振り絞るように言った。
「夏生……っ、ママの言葉を、忘れないで。綺麗すぎる女は、男に騙されるの。不幸な末路をたどるわ……自分の身は自分で守りなさい。その顔は、隠しておくのよっ」
夏生はその言葉を胸に刻んだ。
その日を境に、彼女はわざと自分を醜く装うようになった。前髪は年々厚くなり、眼鏡のレンズは分厚くなり、選ぶ服はいつも目立たない色ばかり。
父は数え切れないほどの見合いをセッティングしたが、相手はみな夏生の外見を目にした途端、逃げるように去っていった。
100回目の見合いの日。夏生は喫茶店の席に座っていた。向かいには、仕立てのいいスーツに身を包んだ男。
男は夏生を一瞥するなり、露骨に眉をひそめた。
「楠瀬さん」
嫌悪感を隠そうともせず、男が口を開く。
「仲人からは、こんな見た目だとは聞いていませんでしたが」
夏生はうつむいたまま、何も答えなかった。
「正直に言わせてもらいますけど」
男は鼻で笑った。
「ふんっ。そんな見た目で、よく見合いの席にのこのこ出てこられますね。誰があなたと結婚したがると思うんです?」
夏生はコーヒーカップを握る手に力を込めた。
男は自分のカップを持ち上げると、突然、夏生の顔にコーヒーをぶちまけた。
「化粧が崩れたほうが、よっぽどお似合いですよ」
冷たい液体が頬を伝い落ち、崩れたファンデーションの下から、白い素肌がのぞいた。
* * *
夏生が顔を上げ、席を立とうとしたその瞬間――
ドンッ、と鈍い音が響いた。
すっと伸びた手が横から割り込み、男の手首を掴んで容赦なくひねり上げる。
「うわああっ!」男が悲鳴を上げた。
「謝れ」
低く、凍りつくような声だった。
振り向いた夏生の視線の先には、仕立てのいいスーツを纏った男が立っていた。
すらりとした長身、まっすぐに伸びた背筋、彫りの深い目元に筋の通った鼻。薄い唇はきつく結ばれ、全身から研ぎ澄まされた気品が漂っている。今その手は男の手首を握りしめたまま、男へ氷のように冷ややかな視線を向けていた。
「な、なんだよお前!」
男がもがく。
「謝れ」
早乙女駿平(さおとめ しゅんぺい)はもう一度、同じ言葉を繰り返した。声量は変わらないのに、圧倒的な威圧感が確かにそこにあった。
その気迫に呑まれた男は、震える声で「す、すみません」とだけ絞り出すと、逃げ去っていった。
駿平は手を離すと、内ポケットからハンカチを取り出し、夏生に差し出した。
「これで拭きなさい」
夏生は、ぼんやりとそれを受け取った。
「女性が、こんな理不尽な扱いを受ける筋合いはない」
駿平は静かな眼差しで夏生を見つめた。
「次にこんなことがあったら、迷わず警察を呼べばいい」
言い終えると、駿平はそのまま踵を返して立ち去った。
夏生はその場に立ち尽くしたまま、彼のまっすぐな背中が喫茶店の入り口の向こうへ消えるのを見送った。心臓がうるさいほど鳴っていた。
夏生は、彼のことを忘れなかった。
家に戻ってから、夏生はすぐに駿平のことを調べ始めた。
名前は早乙女駿平。早乙女グループ史上最年少の後継者で、現在26歳。3年前から一族の企業を率い、その手腕は冷徹かつ卓越している。財界では「完璧な男」として名を馳せている。
そして、何より珍しいのは、私生活が徹底してストイックであること。浮いた噂ひとつなかった。
夏生の心は、大きく揺れ動いた。
だが、どう近づけばいいのか考える間もなく、駿平の方が先に夏生のもとを訪れた。
「楠瀬さん」
リビングに腰を下ろすなり、駿平は前置きもなく切り出した。
「君との結婚を考えています」
夏生は言葉を失った。
「……どうして、私なんですか?」
ようやく口にできたのはそれだけだった。
「私、こんな見た目ですよ」
駿平は、静かで揺るぎない眼差しで夏生を見つめた。
「外見なんてどうでもいい。君が、ちょうどいいと思っただけだ」
ちょうどいい。
ロマンチックとは程遠い、素っ気ない言葉だった。それなのに駿平の口からその言葉がこぼれた瞬間、夏生の胸は高鳴った。
母は言っていた。綺麗すぎる女は男に騙されると。
けれど自分は、わざと醜く装っているのに。それでも駿平は、こんな自分を妻にしたいと言う。
この人こそ、探していた相手なのかもしれないと、夏生はそう思った。
結婚してから3年、駿平はずっと夏生に優しかった。
夏生の容姿を疎んだことは一度もない。それどころか夏生の外見を陰で笑う者がいれば、そっと手を握って言うのだ。
「夏生。君はそのままでいい」
夏生がデザインを好きだと知れば、迷わずアトリエ開業の資金を出してくれた。
胃が弱いと知れば、苦手な食べ物まできちんと覚えてくれて、接待の帰りには決まって温かいうどんを買ってきてくれた。
誕生日には、どれほど仕事が立て込んでいても全て後回しにして、一日中そばにいてくれた。
ある時など、夏生が事故に遭い、乗っていた車が横転して側溝に落ち、いつ爆発してもおかしくない状況の中、駿平はなりふり構わず駆けつけ、素手で歪んだドアをこじ開け、夏生を車内から救い出してくれた。
車から10メートルも離れないうちに、車は爆発した。
駿平は自分の体で夏生を庇い、爆風と炎を浴びて重度の火傷を負った。
病院で目を覚ました夏生が、真っ先に看護師に尋ねたのは「夫は!?夫は無事なんですか!?」だった。
「ご主人の背中の火傷はかなり重いですが、命に別状はありません」
看護師はそう答えた。
「隣の病室にいらっしゃいますよ」
夏生はすぐさま点滴の針を引き抜き、よろめきながら隣の病室へと向かった。
扉に手をかけようとしたその時、中から声が聞こえてきた。駿平の母、早乙女一美(さおとめ かずみ)の声だった。
「駿平!あんな不細工な女を嫁にして、一族の笑い者になっただけじゃ足りず、今度は彼女のために命を危険に晒すなんて!いつまでこんな馬鹿な真似を続けるつもりなの!?」
夏生の手が、ドアノブの上で止まった。
室内が一瞬、静まり返る。それから聞こえてきたのは、駿平の感情の読めない、凪いだ声だった。
「……母さん。俺が何を望んでいるか、わかっているはずです」
「あんたがそんなことをするのも、結局は都和のためなんでしょう!」
一美の声は怒りに震えていた。
「言っておくけど、あんたはうちで一番期待されてる後継者なんだからね。都和なんて絶対に認めない!どれだけ好きでも無理よ。夏生を使って私たちに当てつけたって無駄なんだから!」
夏生はその場に立ち尽くした。全身から血の気が引いていく。
今のふたりは、何の話をしていたの?
都和のため?都和って、誰?
底の見えない恐怖と絶望的な予感が、冷たい波のように押し寄せ、瞬く間に自分を呑み込んだ。
夏生は壁に手をついてよろよろと後ずさり、逃げるように自分の病室へ戻った。
しばらくして、震える手でようやくスマホを取り出し、興信所へメッセージを送った。
【早乙女駿平と、都和という名前の女について調べてください。ふたりの関係を、できる限り詳しく】
返信を待つ一分一秒が、まるで拷問のように長く感じられた。
頭の中では、一美の鋭い「あんな不細工な女」「都和のために」という言葉と、駿平の淡々とした「俺が何を望んでいるか、わかっているはずです」が、何度もこだましていた。
それらの言葉は、まるで毒を塗った刃のように、ようやく温もりを取り戻しかけていた夏生の心を容赦なく切り刻んでいく。
そして、ついに調査結果が届いた。
夏生は震える手でそれを開いた。
送られてきたのは、大量の資料と何枚もの写真だった。
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