クズ夫との決別、新しい人生へ第3話
この話は約2618字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
荷造りの疲労がピークに達し、深夜になってようやく私はベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンが短く震えた。宗介からのメッセージだった。数枚の写真が添付されている。玲奈と凛が、結衣の人形と一緒に写っていた。凛は新しい親友でも見つけたかのように、その人形をきつく抱きしめている。
【凛が人形をすごく気に入ってな。玲奈がお前に礼を言ってくれってさ】
真夜中。自分の夫が別の女と一緒にいて、あろうことかその女は夫を通して私に礼を言わせているのだ。
無力な笑いが漏れた。もはや怒りすら湧いてこない。今更腹を立てたところで、何になるというのか。
私は静かに文字を打ち込んだ。
【どういたしまして。でも、別に玲奈に譲ったわけじゃないわ。それに、その人形は結衣が一番大切にしている誕生日プレゼントよ。妹みたいに可愛がってた。あなたと一緒にお茶会ごっこをするって、ずっと待ってたんだから。早く返してね】
送信ボタンをタップし、スマートフォンの電源を切って眠りについた。
あのメッセージを読んだ宗介がどんな顔をするかなど、知ったことではない。
翌朝、宗介は早くに帰宅した。朝の8時。彼にしてはひどく珍しいことだった。
リビングに入り、上着を脱ごうとした彼の手が止まる。床に並べられたスーツケースを見て、不審そうに眉をひそめた。
「旅行にそんなに荷物がいるのか?」
結衣の着替えを手伝っていた私は、顔を上げずに答えた。「少し遠くへ行くから」
宗介が結衣を見ると、娘はこくりと頷いた。それで安心したのか、彼は上着をソファに放り投げ、ポケットから「アドベンチャー・パーク」の入場券を三枚取り出した。
宗介は自慢げにチケットを掲げてみせた。まるで立派なトロフィーでも見せびらかすかのように。
「俺が結衣を遊園地に連れて行かないからって、ずっと怒ってたんだろ?今日のチケットを買ってきた。三人で行こう」
耳を疑った。一ヶ月近くも放置しておいて、今頃になって思い出したというのか。
今朝、電源を入れたスマートフォンに届いていた未読メッセージの山を思い出した。ああ、なるほど。罪滅ぼしのつもりね。
何も言わず、黙々と結衣の着替えを続けた。
しかし、結衣は目を輝かせていた。私を見上げ、期待に満ちた声で訴えかける。「お母さん、行きたい」
私が微笑み、頷こうとしたその時だった。宗介が気まずそうに付け加えた。
「ただ、一つだけ。俺たちが明日家族で過ごすってことを玲奈が知ってな。家でご飯を食べるだけだって言ったんだが、凛が仲間外れにされたと思って寂しがるんじゃないかって気にしてるんだ。
だから、明日の家族の日はまた別の機会にしないか」
結衣の動きがピタリと止まった。瞳に宿っていた光が、見る間に失われていく。
「……そっか」結衣はぽつりと呟き、うつむいて肩を落とした。
娘の落胆に、宗介はまったく気づいていない。
「ほんの些細なお願いだろ?よく考えてみれば、家族の日はまた別の日でもいいじゃないか。なあ、結衣?」
明日にはもう、私と結衣がこの家から消えていることなど、彼は知る由もない。
これが、彼に残された最後のチャンスだったのだ。
私と結衣は何も言わず、ただ静かに頷いた。
「わかったわ」
「いいよ」
宗介はホッと安堵の息を吐いた。
「玲奈に伝えてくる。3時にアドベンチャー・パークで待ち合わせな。現地で会おう」
そう言って、彼は玄関へと踵を返した。扉に手をかける直前、振り返ってこう口にする。
「仁奈、結衣。愛しているよ」
私たちは何も答えなかった。
宗介が去った後、結衣は昨日彼が買ってきた百合の花束を手に取った。そのままゴミ箱へと歩み寄り、一切の躊躇なく投げ捨てた。
「お母さん」結衣は振り返って言った。「もう、宗介おじさんには会いたくない。もっと早くお家を出られないかな?」
私はフライトの予約を変更した。今日。午後の三時だ。
航空券の変更を済ませ、最後の準備に取り掛かる。
朝の8時。この家で最後となる朝食を作った。玉子焼きとおにぎりだけの簡素なものだが、結衣は黙々とそれを平らげた。
9時半。弁護士の事務所に立ち寄り、署名済みの離婚協議書を受け取る。書類の第一項目には「親権は母親の仁川仁奈に帰属する」と明記されていた。
その合間に、玲奈のSNSの最新の投稿が目に入った。美味しそうな家庭料理の写真。玲奈、宗介、そして凛の三人が、パスタとワインの並ぶ食卓を囲んでいる。キャプションにはこう書かれていた。
【家族でディナー。凛もテーブルの準備を手伝ってくれたの。このささやかな家族に感謝】
傍らで紙飛行機を折っていた結衣が、その投稿をちらりと見た。彼女は何も言わず、ただ一言だけ促した。「お母さん、早くあの紙出して」
11時半。軽い昼食を済ませ、荷物を持ってタクシーで空港へ向かった。出発の2時間前だ。
タクシーの車内で、結衣はタブレットを開き、宗介の古い写真をスクロールしていた。
お宮参りの時の写真。白い祝い着に包まれた結衣を抱き、教会の前でカメラに向かって微笑む宗介。3歳の誕生日の写真。テーマパーティーで、二人でお揃いの海賊の帽子を被っている。
そして2年前、玲奈が再び姿を現す前の動画――公園のブランコで宗介が結衣の背中を押し、結衣が「もっと高く、パパ!」と叫ぶたびに、彼が楽しそうに笑い声を上げている。
結衣はそれらを何度も繰り返し見つめていた。泣いてはいなかったが、車内は息が詰まるほどの深い悲しみに満たされていた。
私は結衣の隣に座り、ただ黙って寄り添った。
午後一時半。保安検査場を抜けようとしたその時、宗介から電話がかかってきた。
「仁奈、結衣に謝っておいてくれないか?凛が急に高熱を出したんだ。40度もある。今から病院へ連れて行かなきゃならない。3時までにそっちに行けるかわからないんだ。もし俺がいなかったら、先に帰っててくれ。結衣には本当にごめんって……」
こちらの背景で流れている空港のアナウンスが耳に届くよりも早く、宗介は一方的に電話を切った。
「行きましょう」
私は結衣の手を引いた。
結衣はこくりと頷いた。そして、タブレットに保存されていた宗介の写真をすべて削除ボタンを押した。
午後3時。私たちの乗った飛行機が離陸した。
結衣の耳にヘッドホンをつけてやり、窓の外に広がる雲海を見つめる。私は長く、ゆっくりと息を吐き出した。
さようなら、宗介。
同じ頃、玲奈の引き止める声も聞かず病院を飛び出した宗介は、「アドベンチャー・パーク」へと車を飛ばしていた。
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