ガラスの靴を捨てて、走り出す第3話
この話は約1429字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
そう言い捨てると、私はスーツケースを引きずり、怒りのまま自分の部屋へ戻った。
その夜、研は私への罰とでも思っているのか、私の部屋には来なかった。
そのことを思い返し、思わず苦笑した。
私は研の恋人であるはずなのに、今はまるで愛人のようだ。
私の部屋には、彼がいつでも自由に入ってくる。
けれど、私が彼の部屋へ行くときは、ドアをノックし、許可を得なければ入れない。
機嫌が悪ければ、「今忙しい」の一言すら返してくれない。
でも、今の私にとっては、それでよかった。結婚まで、あと4日。これ以上、彼とは関わりたくない。
翌朝、目を覚ましてダイニングへ向かうと、すでに研がテーブルについていた。
研はテーブルに置かれたグラスを指差す。
「胃が弱いだろ?佐藤さんに牛乳を温めてもらった」
それが、研なりの仲直りの仕方だ。
以前の私は、研と仲直りするため、いつもその牛乳を受け取り、一気に飲み干していた。
たとえ、牛乳が大嫌いでも……
いつものように研からグラスを受け取ることはせず、代わりに家政婦・佐藤桂子(さとう けいこ)を呼んだ。
「悪いけど、雑炊を作ってくれる?」
すると、研は強引にグラスを私の手に押しつけてきた。
「昨日、理沙に謝れって言っただけだろ。それくらいで、なんでそんなに意地を張るんだよ。
理沙は俺にとって右腕みたいな存在だ。お前だって分かってるだろ。理沙を失ったら、俺は仕事が回らなくなる」
優しさを湛えた研の瞳を見つめていると、胸が締め付けられる。
……
研と出会ったのは、私が彼の会社でインターンをしていた頃だった。
入社したばかりで、社長の顔も知らなかった私は、ある日、部署のコーヒーを買いに行った帰り、たまたま一緒になった彼にエレベーターの行き先階ボタンを押してほしいと頼んだ。
それからというもの、数日おきに花が届くようになり、1ヶ月後、研からディナーに誘われた。
5つ星ホテルのレストランで初めて二人きりで会ったとき、研は紳士的で、教養がありながらもユーモアに溢れていた。私はそのとき、すっかり彼に心を奪われていた。
半年後には、研の別荘で暮らすようになった。
付き合い始めた最初の1年は、本当に幸せだった。
研は私のために、いろいろなお菓子を手作りしてくれたし、私が風邪を引けば、重要な会議を放り出してでも看病に駆けつけてくれた。
関係を公にしたくなかったから、私が残業する日は研も会社に残って仕事をしていた。そして二人きりになると、まるで人目を盗むように、彼の社長室で夜食を食べたり、キスをしたりした。
あの頃の研が、私を心から愛していたことだけは確かだった。
しかし、理沙が彼の秘書になってからは、優しい眼差しを向けてもらうことさえ、贅沢に思える。
口の端を吊り上げ、淡々と言う。
「恩田さんがいないと何もできないなら、いっそ彼女と結婚すれば?妻にしてしまえば、ずっとそばに置いておけるじゃない」
研の顔に、あからさまな苛立ちが浮かぶ。彼が次に何を言うかなんて、聞かなくてもわかる。また「理不尽に騒ぎ立てるな」などと、説教を始めるに決まっている。
だから、彼が口を開くより先に言おうとした。
「研、私たち、別れ……」
しかし、言い終わる前に、理沙が入ってきた。
「社長、もう8時です。そろそろ会社に向かわないと」
研はすぐに冷たい顔で立ち上がり、スーツの上着を手に取ると、そのまま理沙のあとを追うように出ていった。
まただ。何を言っても、まるで暖簾に腕押しだ。
痛みはない。けれど、息が詰まるほど苦しかった。
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