ガラスの靴を捨てて、走り出す第1話
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母の心臓病が再発し、命を救うためのお金が必要だった。
意を決して、10年間ひそかに付き合ってきた、総資産数十億円ともいわれる恋人・清沢研に、お金を貸してほしいと頼みに行くことにした。
しかし、会議室へ足を踏み入れた途端、研は氷のように冷たい視線をこちらへ向け、容赦なく吐き捨てた。
「出ていけ。ここは、お前みたいな平社員が入っていい場所じゃない」
その場で、彼の右腕ともいえる女性秘書・恩田理沙に連れ出され、会議室の外で待つよう告げられた。
待ち続けること、8時間。
その重苦しい沈黙を破ったのは、母の死を知らせる病院からの電話だった。
そこでようやく、私の存在を思い出したのか。理沙に案内され、私は社長室へと通される。
「で?俺に何の用だ」
私の口元に乾いた自嘲の笑みが浮かぶ。
「……別に。少しだけ時間をもらって、別れを告げたかっただけ」
* * *
「私、10年間付き合ってきた彼と別れたばかりよ。それでも、本当に私と結婚するつもり?」
向かいの席に座る男は一瞬沈黙し、そして私・江崎心(えざき こころ)を真っすぐ見つめ、静かに言う。「心、俺は10年間、君を待ち続けた」
胸がぎゅっと締め付けられる。「分かった……7日後に結婚しよう」
話がまとまると、バッグを手にカフェを出て、新幹線の駅へ向かう。
母・江崎佳代(えざき かよ)が亡くなってから、3日目だ。
この3日間、声が枯れるほど泣き続けた。母が亡くなったことは、私の周りにいる誰もが知っている。
ただ一人、10年間付き合ってきた恋人・清沢研(きよさわ けん)だけが知らない。
私と研は、互いの友人関係にはほとんど踏み込んでこなかった。
研は私を自分の友人たちに紹介したことはなく、私の友人に会おうとしたことも一度もなかった。
おまけに、研は大企業の社長として多忙を極めている。
1分1秒を争うような生活を送っているから、私のSNSを見るために時間を割くことなどあり得なかった。
母が亡くなったことだけではない。手術費を用意できず、それが原因で亡くなったことさえ、研は知らない。
だから、母の遺骨を納めたその日、私は決めた。研との関係を完全に断ち切り、別の男と結婚する。
どんよりとした空から冷たい雨が降り始める。そんなタイミングで、スマホが鳴った。
メッセージを送ってきたのは、研の秘書・恩田理沙(おんだ りさ)だ。
【江崎さん、明日、社長が出張されます。革靴を2足とスーツを3着、用意しておいてください】
まるで命令のようなメッセージを見つめる。
もう研と別れると決めたはずなのに、なぜか胸が苦しい。
研と付き合った10年間、その大半に理沙の影がつきまとっていた。
甘えるつもりで研にメッセージを送っても、返信してくるのは決まって理沙だった。
【申し訳ありません、江崎さん。社長はただいま会議中です。ご用件は私からお伝えします】
それどころか、避妊具から日々の食材、普段着の購入に至るまで、日常生活のあらゆることを理沙が取り仕切っていた。
それが嫌で、何度も研に不満をぶつけた。しかし、彼はいつも冷ややかな目で私を見下ろすだけだった。
「お前にはセンスも、物を見る目もない。だから能力のある理沙に任せているんだ。いったい何が不満なんだよ」
以前の私は、そんなふうに言われると、何も言い返せなかった。でも今はもう、どうでもいい。
確かに、国内の無名大学出身の私が、海外の有名大学院を修了した理沙に敵うはずがない。
理沙は経験も豊富で、取引先との交渉をこなし、研の身の回りまで抜かりなく管理している。
それに比べて私は、研の会社で10年働いているというのに、いまだに目立たない営業企画部の一社員にすぎない。
思わず鼻で笑ってしまう。研がそこまで理沙を重宝しているのなら、いっそ研を理沙に譲ってしまえばいい。
私はすぐに理沙へ返信した。
【研の荷物をまとめる暇はない。恩田さんが直接うちへ行って、準備してあげたら?】
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