ようやく大切なものに気づいたってもう遅い第1話
この話は約2172字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
稲森晃(いなもり あきら)は極端なまでに面倒事を嫌う人間だ。
だから、彼専用に決められた「スケジュール表」が存在する。
たとえば、誕生日プレゼント。全てのプレゼントを一括購入し、その人の誕生日に間に合うように商品が発送され、当日に届くよう手配する。
待ち合わせ場所は毎回同じ。もし、約束のレストランを変更したい場合は、一カ月前に彼に変更を申し出なければならない。
男女の交わりも、彼は時間きっちりタイマーを設定している。
「できる限り、無駄を省くんだ。お互いに迷惑をかけるのはよくないだろ?」
彼と一緒にいた7年間、彼は誰に対してもこのような態度なのだと思っていた。
私のこの思い込みは、友人たちと集まったあの日で消えた。
あの日、店員がフルーツの盛り合わせを運んできた。
彼はその中から、みかんを手にとり、白い筋まで丁寧に取って、ガラスの器に入れていった。
隣に座っていた私は、手を伸ばしてそれを取ろうとした。
すると彼は手の動きを止め、私を見たが、ガラスの器を天野杏南(あまの あんな)の前にずらした。
杏南は以前、私をいじめていた女だ。
高校生の時、彼女から宿題用のノートを破られたり、机の上には接着剤をつけられたりした。授業時間なのにトイレに閉じ込められて出られなかったこともある。
あの頃の晃も、彼女を指さして「ろくな死に方はしないぞ」と呪うように怒っていた。
それが今、晃は私の隣に座っているくせに、綺麗に白い筋まで取り終えたみかんが入った器を杏南にあげて、囁いた。
「どうぞ、ゆっくり食べて」
私は伸ばしかけた手をそのまま引っ込めた。
その瞬間、私は一秒でもこの場にいたくなくなった。
それに晃への気持ちも冷めていった。
* * *
私は最後に晃をちらりと見た。
そして立ち上がって、その場を離れようとした。
「ほんと、葵(あおい)の性格って変わらないよね。すっごい人付き合い悪い。言ったじゃん、私、今日来たくないって、なんかプライド傷ついちゃうわ……」
相変わらずのわがままっぷりな杏南の声が後ろから聞こえてきた。
彼女の家庭での出来事も、杏南を変えることはできなかったらしい。
私は我慢できずに後ろを振り返って見ると、晃が彼女を懐に引き寄せて、なぐさめているところだった。
そして夜10時、彼はスケジュール通りに帰ってきた。
彼は家に入ってコートを脱ぎもせず、直接私の前にやって来た。
「葵、お前、明日杏南ちゃんに謝れよ。
お前が先に帰ってから、彼女、ずっと泣いていたんだぞ」
彼は失望した様子で私を見つめた。
「葵、もう子供じゃないんだ。今日は杏南ちゃんの他にもたくさん友人がいただろ。なんでいつもそうやって自分のことしか考えられないんだ?すっげえ失礼だと思わないのか?」
昨夜、あまりよく寝られなかったせいなのか、この時の私は気分が悪くなるほど心臓の鼓動が速くなった。
「ただのみかんだぞ。食べたいなら自分でむけばいいだろ?」
この時突然、彼と付き合い始めたあの年のことを思い出した。
私はりんごを持って、彼に甘えた。
彼は私を一瞥すると、眉をひそめた。
「俺が面倒な事は嫌いだって知ってるだろ?そんな時間かけて皮をむかないといけない果物とかいらん。俺にむいてもらおうなんて考えるなよ」
あの頃の私は、彼は誰に対しても面倒を嫌う人間だと思っていたが、例外があったわけだ。
その例外が、私ではなかっただけの話。
「高校生の頃なんてまだ子供みたいなもんだったんだから、杏南ちゃんがやったことを本気で受け止めるなよ。お前もそろそろ昔のことは忘れるべきだ。自分一人で悩むならまだしも、周りまで巻き込むなよな。
それに、彼女の実家はもう破産まで追い込まれたじゃないか。彼女はもう報いを受けたようなもんだろ」
彼が家に入ってきてから5分。300秒という時間。
その間口から出るのは全て杏南を庇う言葉ばかり。それにひきかえ私は一言も声を出していない。
私は彼を見つめ、悔しくて目に涙が滲んできた。
すると晃はため息をついて、疲れた様子で言った。
「ほらな、またこれだ。さっきちゃんと筋道立てて説明したろ?なんでまた泣きだすんだよ?
なあ、葵、お前のそういうとこ、俺めっちゃ疲れるんだ」
そして彼はコートを脱いで、適当にソファの背もたれに放り投げた。
私は深呼吸して、震える体をどうにか落ち着かせようとした。
「だから、あなたは私が、ただあのみかんの件で機嫌を悪くしていると思ってるわけね?」
彼はほぼ無意識に面倒臭そうな目をして眉間に皺を寄せた。
ここまでくると、私はもう我慢の限界だった。
ひどい耳鳴りがする。
まるでまたあの夏に戻ったかのようだ。
――水瀬葵(みなせ あおい)、あんた生まれつき卑しい人間よね。どうしてまだ生きていられるの?
人の持つ悪意というものは、ここまで不条理なものなのだろうか。
ただ、入学式の日に、持ち物の色が杏南とかぶっただけなのに……
ただ色が同じなだけで、デザインも違う。
そのせいで、毎日お嬢様の杏南にからかわれる対象になってしまった。
あの頃、杏南からいじめられる私を晃はいつも庇ってくれていた。
何度いじめられようと、彼は諦めずに何回だって私を連れ出してくれた。
だから彼は永遠に私の味方だと思っていた。
晃はティッシュをとり、そっと私の涙を拭き取った。
「もういいだろ。あと20分しかない。泣き止んで、時間は待ってくれないんだから」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)