もしも、出会った日のままでいられたなら第1話
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私との結婚を氷見寒成(ひみ かんせい)は三十八回も先延ばしにした。
五度目の事故では、車に激突されて肋骨を八本も折り、私は七度も危篤通知に署名した。
十度目、入籍へ向かう途中では、車ごと海へと弾き飛ばされ、着ていたスーツは鮫に食い破られた。
そして三十八度目。
寒成は心臓の病が悪化し、命の瀬戸際に立たされていた。
私は妊娠八か月の大きなお腹を抱えながら三度も乗り継ぎをし、二十三時間かけて地球の半分を横断し、彼のもとへと辿り着いた。
扉を開けると、そこには彼と瓜二つの少年が顔を上げて言った。
「ママが帰ってきたと思った」
その瞬間、寒成が裸足のまま駆け出してきて、愕然とした表情で私を見つめた。
私は振り返る。
そこに立っていたのは、十二年付き合いの親友だった。
手には鍵。
少年は駆け寄り、その胸に飛び込んで無邪気に呼ぶ。
「ママ!」
――ようやく、理解した。
七年も待ち続けた婚約者は親友が長年ひそかに結婚していた――その夫だったのだ。
私は静かに口を開いた。
「三十八回も死にかけてまで待ったけど――もう、待たない」
そして、まっすぐに彼を見据える。
「氷見寒成。あなたも――いらない」
* * *
私との結婚を氷見寒成(ひみ かんせい)は三十八回も先延ばしにした。
五度目の事故では、車に激突されて肋骨を八本も折り、私は七度も危篤通知に署名した。
十度目、入籍へ向かう途中では、車ごと海へと弾き飛ばされ、着ていたスーツは鮫に食い破られた。
そして三十八度目。
寒成は心臓の病が悪化し、命の瀬戸際に立たされていた。
私は妊娠八か月の大きなお腹を抱えながら三度も乗り継ぎをし、二十三時間かけて地球の半分を横断し、彼のもとへと辿り着いた。
扉を開けると、そこには彼と瓜二つの少年が顔を上げて言った。
「ママが帰ってきたと思った」
その瞬間、寒成が裸足のまま駆け出してきて、愕然とした表情で私を見つめた。
振り返ると、そこには十二年来の親友・沢渡杏奈(さわたり あんな)が鍵を手に立っていた。
少年は一目散に駆け寄り、その胸に飛び込んで無邪気に呼ぶ。
「ママ!」
――その時、すべてを悟った。
七年間待ち続けた婚約者は親友が長年ひそかに結婚していた――その夫だったのだ。
私の姿を見ても、杏奈は困ったように微笑むだけで、気まずさの一つも見せなかった。
まるでこの家の女主人であるかのように私を招き入れ、使用人に温かいミルクを持ってこさせる。
「明里、妊娠中なんだから、冷たいものはよくないわ」
その目をまっすぐ見据え、私は静かに問いかけた。
「……いつから?」
杏奈はくすりと笑い、ゆっくりと婚姻届の受理証明書を差し出す。
日付は八年前の11月22日。
その瞬間、頭の奥で何かが弾け、耳鳴りがした。
――あの夜。
寒成は都市一帯を貸し切り、無数のドローンで空を埋め尽くして私に盛大な告白をした。
煌びやかな花火の下で、二人は情熱的に口づけを交わし、その光景は街中の話題となった。
同じ日――彼は杏奈の手を引き、役所へと向かっていた。
そして、二人は正式に夫婦になった。
私はただ、婚姻届の受理証明書を見つめたまま、乾いた笑みを浮かべる。
胸の奥が息もできないほど鋭く痛んだ。
杏奈はわざとらしくため息をつき、どこか哀れむように言う。
「明里、私を責めないで。実はね、あなたと寒成のこと、ずっと前から知ってたの。
考えてみて?私の黙認がなかったら、あなたがずっとあの人のそばにいられるわけないでしょう?
それに、あの頃パンも満足に買えなかった学生だったあなたが、今みたいに贅沢な暮らしをできるようになったのも……」
杏奈は薄く笑い、唇の端にかすかな軽蔑を浮かべた。
「むしろ、感謝してほしいくらいだわ」
喉の奥に何かが詰まったように息苦しくなり、私は目元を拭いながら震える声で問い返す。
「……じゃあ、どうして八年前に教えてくれなかったの?私が結婚の準備で浮かれて、何度も何度も裏切られるのを見て……楽しかった?」
杏奈は眉を上げ、鼻で笑った。
「教える?どうして?この世界で、外に女を作らない金持ちの男なんていると思う?どうせなら、どこの馬の骨とも分からない女より、あなたのほうがまだマシよ」
斜めに視線を向け、口元をわずかに歪める。
「従順で扱いやすいし、自分の立場もちゃんと分かってるもの」
一言一言が刃物のように胸に突き刺さり、深くかき回す。
十五年前――杏奈は暗闇だった人生に差し込んだ、唯一の光だった。
空腹に耐えきれず、食堂の残飯桶に手を突っ込み、周囲から残り物を投げつけられていたあの日。
杏奈は私の周りに集まっていた連中を追い払って、鶏肉を差し出してくれた。
「明里、これからはあんたは私のものよ!誰がなんて言おうと、私が黙らせてやる!」
――その同じ口で、今の杏奈は私を蔑んだ。
怒りに任せて、私はグラスを掴み、杏奈に向かって投げつける。
次の瞬間――寒成が飛び出し、杏奈の前に立ちはだかった。
グラスは彼の額に当たり、鮮やかな血が滲む。
寒成は眉をひそめ、怒りを含んだ目で私を睨む。
だが、その視線が私の大きく膨らんだ腹に落ちた途端、表情がふっと緩んだ。
甘く宥めるような声で言う。
「明里、お腹に子どもがいるんだ。そんなに興奮しちゃだめだ。無事に産んでくれれば、式はすぐにでもやり直す」
彼は私を強く抱き寄せる。
「杏奈を名付け親にすれば、周りも納得するだろう。約束する。お前も子どもも、一生不自由させない」
その腕の中は温かいはずなのに――私の身体は氷の底に沈んでいくようだった。
数秒の沈黙のあと、私は彼を突き飛ばす。
そして――躊躇なく、頬を打った。
乾いた音が響く。
寒成は顔を逸らされ、信じられないという目で見返してくる。
腹を抱えながら、私は声を震わせて叫んだ。
「氷見寒成、どうしてこんなことができるの?私はあなたにとって何なの!」
寒成の表情が徐々に冷え、苛立ちを隠さず低く吐き捨てる。
「俺を責める資格がお前にあるのか?お前の父親だって、同じことをしただろう?」
その言葉に、私は凍りつく。
「母親を裏切って、騙して――未婚のままお前を産ませて、挙げ句の果てに捨てた。
出来損ないって言われながら生きてきたお前を、誰が引き上げてやったと思ってる?」
正義を装ったその声。
――彼は知っているはずだった。
家庭のことは私が最も触れられたくない傷だと。
酒瓶で殴られた幼い日々。
近所から指を差され、罵られ続けた記憶。
そこから抜け出すのに、どれだけの年月がかかったか。
寒成はかつて、その傷を縫い合わせてくれた人だった。
それなのに今――自ら縫い目を引き裂き、その傷口に塩を塗る。
私の心は完全に冷え切っていた。
そして、かすかな声で――だが確かな決意を込めて告げる。
「離婚しないなら、もう、終わりにする」
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