もう、季節は私を通り過ぎていくだけ第3話
この話は約2442字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
嵐のような歓声のなかで、日和だけが、ひとり涙を流していた。
彼女は背を向けて逃げだしたけど、たいして走らないうちに道で転んでしまった。ひざをすりむくと、血がふくらはぎを伝って流れていく。
でも、痛みは感じなかった。それよりも、心が無数の矢で射ぬかれたように痛んだ。
ふらつきながら家にたどりつくと、珍しく真司が先に帰っていた。
書斎のドアが少し開いていて、彼は窓際に立ち、秘書の木村亮太(きむら りょうた)と電話をしていた。
「離婚協議書を作ってくれ。財産分与をはっきりさせたら、裁判所に訴訟を起こす。すべて内密に進めるんだ。日和が騒ぎださないよう、気をつけろよ」
ドアの外でその言葉を聞き、日和は、ふと笑ってしまった。
そういうことだったんだ。
真司は、とっくに自分と別れる準備をしていたんだ。
どれくらい時間が経っただろうか。真司が寝室にもどってきて、日和の隣に横になった。
彼女は、ぽつりと尋ねた。「真司、あなたは、愛する人にはすごく優しくするんでしょ?」
真司はどきりとした。なぜそんなことを聞くのかわからなかったが、落ち着いて答えた。「もちろんだよ。俺は、お前に優しくなかったかな?」
日和は声もなく笑い、自分にだけ聞こえる声でつぶやいた。「なら、あなたの望みをかなえてあげるわ」
二人は互いに背を向けたまま、眠れない夜を過ごした。
翌朝早く、真司はそそくさと家を出ていった。
日和も後を追うように家を出て裁判所へ向かい、亮太が提出した離婚の申立書に、自らサインをした。
まもなく、綾子から電話がかかってきた。「日和、助けて!昨日の夜、真司のプロポーズを受けたばっかりなのに、もう今日ウェディングドレスを選びに来てるの。スタッフみんなが私を見てて、どれにすればいいか全然決められないよー!」
日和はとっさに断った。「私がお邪魔するのもなんだし、二人が気に入ったものを選んだらいいじゃない」
でも綾子は譲らない。「だめ!絶対あなたに選んでほしいの。午後に雲上カフェで待ってるから!」
コーヒーの豊かな香りが漂うなか、日和は綾子の口元についていたミルクの泡をぬぐってあげた。
小さいころから、日和はいつも彼女のお世話をする役だった。
綾子は目を輝かせながら日和の手を握った。「ねぇ日和、私、今すっごく幸せなの!もう迷わなくていいのが、こんなに幸せなことだったなんてね。あなたは一番の親友なんだから、ブライズメイド、絶対お願いね!」
彼女の笑顔を見ていると、日和は心が張り裂けそうだった。
それでも、顔には必死に平静を装った笑みを浮かべていた。
綾子はいくつかのアクセサリーを取り出すと、日和の前に並べて見せた。「これ、今日彼がくれたの。未来のお嫁さんのためにって、特別に出してきてくれたんだって。菅原家に代々伝わる宝物なんだよ」
ビロードの箱の中。オーダーメイドのアンティークジュエリーには、すべて綾子の名前が金色の刻印で彫られていた。
その下には真司のサインがあり、彼がいつも使っている決まり文句だった。
「これは菅原グループの社長夫人だけへの特別な贈り物で、この刻印も、彼が自らの手で彫ってくれたものなんだって」
綾子の目元は優しく和らぎ、幸せいっぱいの笑みを浮かべていた。
日和は目の奥がつんとして、テーブルの下で太ももを強くつねり、なんとか涙をこらえた。
「おめでとう、綾子、あなたを愛してくれる人が見つかって、本当によかった。でも、一つだけ先に言っておきたいことがあるの。あなたの結婚式、ブライズメイドはできないかもしれない。仕事で異動があって、近いうちに海外に行くことになったのよ」
綾子の笑顔がこわばった。「いつの話?そんなの聞いてないよ。一人で海外に行ってどうするの?旦那さんはいいって言ってるの?」
「彼とは、離婚するつもりよ」
日和は、まるで世間話でもするように、何でもないことのように答えた。
このとき彼女は、真司が結婚を秘密にしておこうと言ったことに、感謝すらしていた。そのおかげで、親友の綾子さえも、自分の夫が誰なのかを知らないのだ。
かつては、愛はどんな障害も乗り越えられると信じていた。だから、このつらさも喜んで受け入れていたのだ。
でも、こんなにあっけなく、突然すべてが変わってしまうなんて、思ってもみなかった。
綾子はみるみるうちに目を赤くした。「どうしてそんな大事なこと、今まで教えてくれなかったの?旦那さんが、何かひどいことでもしたの?
その人、誰なの?教えてよ!私が直接問いただしてやるから!なんでそんなひどいことができるの!」
日和の心は、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
本当は、何もかもぶちまけてしまいたかった。でも、できるはずがなかった。
綾子の幸せそうな笑顔はまぶしく輝いていた。彼女があんなに一人の男性を愛したのは、きっと初めてなのだ。
日和には、その幸せを壊すことなんてできなかった。自分のせいで、綾子を傷つけるなんて、絶対に嫌だった。
日和は手を伸ばし、綾子の涙をぬぐった。「大丈夫。もう手続きも進んでるから、このまま、きれいに終わりにするの。前は家庭が大事だと思ってたけど、これからは仕事に集中したいから」
綾子は呆然と日和を見つめ、胸を痛めてテーブルを回り込むと、彼女をぎゅっと抱きしめた。「日和、このごろ、私自分の幸せな話ばっかりして……あなたの気持ちに、全然気づいてあげられなかった。ごめんね」
日和は彼女の背中をそっと撫でながら、こらえきれずに涙をこぼした。「綾子、その人は、本当にあなたを幸せにしてくれるのね?」
綾子は力強くうなずいた。「うん。彼の熱い愛情をいつも感じてる。毎日が夢みたいに幸せなの。私は恋愛に臆病だったじゃない?心から安心させてくれる男性に出会えるなんて、思ってもみなかった。
私はとっても幸せだよ。だから、日和、あなたも絶対に幸せになってね!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、カフェのドアベルがカランと音を立てた。
そして、聞き覚えのある声が響いた。「綾子、迎えに来たよ」
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