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もう、あなたを待つ港じゃない第1話

この話は約2126字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

夫は遠洋貨物船の船長で、一年のうち10か月は海の上にいる。

私はずっと夫を信じていた。

ただ、誰にも気づかれていない小さな習慣が一つだけあった。

夫の船が入港して補給を受けるたび、私は一等航海士の妻を誘って、二人で酒を飲んでいた。

一等航海士は無口な人だが、その妻はよく喋るうえに酒に弱い。

家のことや船の話をしながら飲んでいると、3杯目に差しかかったところで、彼女がふいに顔を寄せてきた。

「凪紗さんの旦那さんって、本当にロマンチックですよね。先月マルセイユに寄港したとき、わざわざ現地の職人に頼んで、波をモチーフにしたダイヤのジュエリーを一式作らせたんですよ。ネックレスにブレスレット、イヤリングまで揃えて、補給便で持ち帰らせたんですって。羨ましいなあ」

私は小さな声で言った。

「そうなんだ。私、受け取ってないけど」

それ以上は聞かなかった。

彼女も察したのか、すぐに別の話題へ移った。

その夜、家に帰って航海台帳を開いた。

マルセイユ港から持ち込まれた荷物のリストを見ると、ジュエリーの届け先は――私の家ではなかった。

海の上では、いつ風向きが変わるか分からない。

私も、そろそろこの船を降りるときだった。

* * *

【届け先:汐見ベイレジデンス17号棟1203号室】

【備考:必ず本人が受け取ること。家族への引き渡し不可】

私、高瀬凪紗(たかせ なぎさ)はその一文を、しばらく見つめていた。

【必ず本人が受け取ること】

そこまで念を押して届けたい相手がいるらしい。

黒崎直哉(くろさき なおや)と結婚して6年。

直哉は航海に出るたび、家の鍵を玄関の2段目の引き出しに入れていった。

「凪紗、家のことは任せたからな」

私は義父母の世話をし、各種手続きの書類を揃え、乗組員の家族への連絡も代わりにしてきた。

私にはいつも、「任せた」の一言だけだった。

けれど、別の誰かに送る荷物には、受け取り方まで細かく気を配っている。

私はもう一度、見知らぬ住所を見た。

テーブルの上でスマホが震えた。

直哉からメッセージが届いていた。

【今スエズ運河を抜けたところ。電波が悪い】

私は一言だけ返した。

【そう】

こんなにそっけない返事が来るとは思わなかったのだろう。

少しして、またメッセージが届いた。

【今日は、飯食ったかって聞かないのか?】

私は航海記録の台帳を閉じた。

【食べた?】

返事はすぐに来た。

【食べた】

画面を見ながら、私は小さく笑った。

電波が悪いわりに、こういう返事だけはずいぶん早い。

翌日の午前中、私は汐見ベイレジデンスへ向かった。

汐見市でも指折りの高級オーシャンビュー・レジデンスで、港までは車で10分ほどだった。

入口の警備員に、訪問先を尋ねられた。

私はスマホに保存してあった荷物のリストを見せた。

「17号棟1203号室です。荷物の確認に来ました」

警備員は備考欄を見ると、すぐに態度を改めた。

「少々お待ちください。1203号室の水原さんなら、ちょうどご在宅です」

水原さん。

その名前を、私は頭に刻んだ。

エレベーターで上がっている途中、直哉からビデオ通話がかかってきた。

出なかった。

続けて3回かかってきた。

4回目はメッセージだった。

【どこにいる?】

私は返した。

【買い物】

すぐに返事が来た。

【あまり出歩くなよ。俺がいないと、お前じゃ対処できないことも多いんだから】

エレベーターの扉が開いた。

同時に、17号棟1203号室のドアも開いた。

女はシルクの部屋着をまとい、首にはあの波をモチーフにしたダイヤのネックレスをつけていた。

私を見ると、指先でネックレスに触れた。

「どちらさま?」

「高瀬凪紗です」

彼女の笑みが一瞬止まった。

だが、すぐに元に戻った。

「直哉の奥さんだったんですね」

その言葉には、遠慮も後ろめたさもなかった。

水原澪(みずはら みお)は、私を中へ招き入れた。

リビングには開封済みの宅配箱がいくつか置かれ、フランスから届いた包装紙もまだローテーブルの上に残っていた。

イヤリングとブレスレット、それに小さなカードが目に入った。

カードに書かれていたのは、直哉の字だった。

【海を分かる人にこそ、波は似合う】

直哉と結婚したばかりの頃、彼から航海用の腕時計をもらったことがある。

ベルトが硬く、長くつけていると手首が擦れた。

「船長の妻なんだから、船にちなんだものの一つくらい持ってないとな」

私はそれを6年間つけ続けた。

そして今、彼は別の女に「波」を贈り、その女こそ海を分かっていると言う。

澪が水を一杯、私の前に置いた。

「凪紗さん、荷物を取りに来たんですか?」

私はグラスには触れなかった。

「直哉が私のために買ったものが、ここに届いてるから」

澪は笑った。

「それなら、直哉に聞いたほうがいいんじゃないですか?誰のものかなんて、届け先を見れば分かるでしょう?」

「見たよ」

私はスマホを取り出し、ローテーブルのカードにカメラを向けた。

澪が手を伸ばして遮った。

「そういうことするの、みっともなくないですか?」

私は顔を上げ、彼女を見た。

「既婚者の男からダイヤをもらうのは、みっともなくないんだ?」

澪の表情が冷えた。

「直哉から聞いてますよね?私たち、凪紗さんよりずっと前から知り合いなんです」

私はうなずいた。

「じゃあ6年も順番待ちしてたんだ。大変だったね」

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