もう愛する理由はない第3話
この話は約1673字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
彼は私の手にあるハンドバッグと白い袋を見て、尋ねた。
「さっき、ピンクの箱を持ってたように見えたけど……あれは何だ?」
「見間違いよ」
私は髪を耳にかけながら、どうやって婚姻届を出すことを断れるか考えている。
だが、考えがまとまる前に、一本の電話がそれを遮った。
スピーカーからニナの悲鳴が響き渡った。
「進介おじさん!外に、誰かが私をつけてるみたい!」
進介の表情が一瞬でこわばった。
「ニナ、怖がるな。今どこにいる?すぐに行く」
その慌てた目の色を見た瞬間、私はふと思い出した。
――ニナが自殺しようとしたあの時のことを。
あの時も、ニナは私と進介の婚約が決まったと聞いて、泣き叫びながら彼に告白した。
そして拒絶された。
だから、彼女は極端な行動に出た。
進介は後悔しきりだったが、私たちの結婚の日取りはすでに決まっていた。
結局、彼はニナに対して過剰なほど優しく接するようになった。
さらに、私にまでこう言った。
「ニナから電話がかかってきたら、24時間いつでも出てやれ。
彼女が俺を見つけられない時は、お前を頼るかもしれない」
ある日、私は会議中で電話に出られず、ちょうど進介も飛行機の中で、スマホの電源を切っていた。
その間に、ニナは家で手首を切った。
その出来事がきっかけで、進介は私をブロックし、ニナを連れてK寺へ心の療養に向かった。
結婚式が目前に迫っていたにもかかわらず――
彼は何のためらいもなく、私を置き去りにした。
進介はいつも、私を犠牲にして他人を救おうとする。
……それが、あの仏教徒たちの言う「慈悲」というものなの?
彼が「慈悲」を示せるのは、私が絶対に離れないと確信しているからだ。
――でも、今回は違う。
運転手は全速力でニナのもとへ向かった。
その路上には、小さな猫のようにしゃがみ込むニナの姿がある。
けれど、周囲には人影がまったく見当たらない。
進介の姿を見つけると、ニナはすぐに彼の胸に飛び込んだ。
その顔に浮かんだ、わずかな得意げな笑みを私は見逃さなかった。
――わざとだ。
彼女はきっと、進介が私と婚姻届を出しに行くつもりだったことを知り、それを妨害したのだ。
私は思わず笑みがこぼれてしまった。
もし彼女が、私がすでに別の人と結婚することを知ったら……そのときは、彼女のほうが笑われるかもしれない。
ニナは涙を滲ませながら、甘えるように進介の胸にすがりつき、「誰かに追われて怖かったの」と訴えている。
進介は彼女をなだめながら、そのまま抱き上げて車に乗せた。
そして振り返ったとき、ようやく私の姿に気づいた。彼の足が一瞬止まったが、わずかに迷った後、冷たく言った。「……お前は自分で帰れ」
そう言い残して、彼は車を走らせて去って行った。
ここは人里離れた郊外だ。どうやってタクシーを捕まえればいいんだ?
私は乾いた笑いを漏らし、仕方なく博之に連絡を取った。
家に戻って間もなく、階段から慌ただしい足音が聞こえてきた。
進介は私の顔を見るなり、ほっと息をついたようだ。
「悪かった。午後はいろいろ立て込んでて、約束してた婚姻届も出しに行けなかった」
私はてっきり、彼が軽く謝るだけだと思っていた。けれど、彼は再び「婚姻届」という言葉を口にした。
私は書き上げた招待状をバッグにしまい、淡々と答えた。
「別にいいよ」
私が責める様子を見せなかったので、彼は満足そうに近づいてきて、私の頭を撫でた。
――昔からそうだ。私が従順でいれば、彼はこうして優しく撫でてくれる。
「大人しくしろ」「言うことを聞け」と求めながら、別の女のわがままは甘やかす。
私はその手をかわし、しゃがんで棚の中の荷物を整理した。
進介は一瞬動きを止めたが、すぐに口を開いた。
「……じゃあ、明日、婚姻届を出しに行こう。仕事は調整するから」
彼が私に歩み寄るのは珍しいことだ。だが、私はひそかに冷ややかに笑い、こう言った。
「いいえ。明日は美緒と会う約束があるの。結婚式の招待状を渡しに行くのよ」
その言葉を聞いた途端、進介の表情はようやく和らいだ。
――しかし、彼はまだ知らない。
その結婚式は、もはや彼とはまったく関係のないものだということを。
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