もう彼の助手席には座らない第1話
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荻村文昭(おぎむら ふみあき)と付き合って4年。彼の車の助手席には、たくさんの人が座った。
母親、従妹、女性の同僚、それから「仲のいい友達」の白岩エレン(しろいわ えれん)。
なのに、私だけは座ったことがない。
そのたびに聞くと、彼は決まってこう言った。
「後ろに座るのと何が違うんだ?そんなの、大したことじゃないだろ」
私は数えていた。「大したことじゃない」という言葉を、彼は私に76回も口にしていた。
私の誕生日なんて、大したことじゃない。
私の卒業式なんて、大したことじゃない。
彼の隣に座りたいという私の願いも、大したことじゃない。
けれど昨日、エレンが別の男の車の助手席に座って帰った。
そのとき、文昭は初めて私に怒鳴った。
「もう少し早く降りられなかったのか?明澄を待ってたせいで、エレンを迎えに行くっていうあんな大事な用事に遅れたんだぞ!」
焦りで赤くなった彼の目を見つめながら、私は思った。
彼は、助手席がどういう意味を持つのか、ちゃんと分かっていた。
ただ、相手が私になると、「大したことじゃない」に変わるだけだった。
私は車のキーをリビングのローテーブルに置いた。
「じゃあ、もう座らない。前も後ろも、もう座らない」
* * *
ローテーブルの上のキーを見た文昭は、まずは小さく笑った。
その笑いはかすかで、いつもの我慢がとうとう限界に達したような響きを帯びている。
「玉浦明澄(たまうら あすみ)、まだそんな芝居を続けるのか?たかが座席のことだろ。4年も、同じことで何度も騒ぐんだな」
私は食卓の脇に立ったまま、指先にはさっきまで鍋から立ちのぼっていた湯気の温もりが残っていた。
「今日は4年目の記念日だよ。今夜は白岩さんから電話がかかってきても出ないって、約束したでしょ」
「外で嫌な目に遭ったんだ。俺が迎えに行って何が悪い?」
文昭はキーを手に取った。
「明澄、いつもそんなに自分を可哀想だと思うな。誰も明澄のことを雑に扱ってなんかいない」
「じゃあ、私の誕生日に、文昭が彼女の引っ越しを手伝いに行ったのも、私を雑に扱ったわけじゃないの?」
彼の眉間にしわが寄った。
「あの日は大したことじゃない」
77回目。
私は彼を見つめ、それ以上言い返す気さえなくなった。
私が何も言い返さないのが、よほど気に入らなかったのだろう。文昭はさらに冷たい声で言った。
「今夜は一人で反省しろ。自分の間違いに気づいたら、そのときまた結婚の話をする」
そう言い残して、彼は出ていった。
扉が乱暴に閉められると、玄関の棚が小さく揺れた。
一番上に置いてあった木枠の写真立てがタイルの床に落ち、ガラスにひびが入った。二人で撮った写真が、真ん中から破れそうになっている。
4年前に撮った写真だ。
あの日、文昭が初めて私を会社の忘年会に連れていった。エレンは酔っ払って、彼の助手席に座ったまま、車の中でずっと眠っていた。
私は後部座席で彼の上着を抱きしめ、自分に言い聞かせていた。
友達だって、面倒を見てあげなきゃいけない。
私はしゃがみ込み、割れたガラスには手を触れなかった。
ベランダからほうきを持ってきて、破片も、木枠も、無理に笑っているあの日の写真も、全部まとめてゴミ箱へ掃き入れた。
ダイニングの明かりは、まだついたままだ。
食卓には何品かのおかずと、汁物が並んでいる。どれも文昭の好物だ。
私は土鍋を持ち上げ、台所へ向かった。
汁を流すと、何個かの具がシンクの縁にカサカサとぶつかり、音を立てた。
ポケットの中でスマホが一度だけ光った。
文昭からボイスメッセージが届いた。
「エレンが、明澄の作ったカレーを食べたいってさ。詰めておいてくれ。俺があとで取りに戻るから。もう拗ねる顔をするな」
私は蛇口を閉め、空になった鍋をコンロに戻した。
【捨てた】
メッセージを送ってから10秒もしないうちに、電話がかかってきた。
私は出た。
文昭の声は低く沈んだ調子だ。
「明澄、もういい加減にしろ」
「あのカレーは私が作ったのよ」
「明澄は俺の婚約者だろ。友達にカレーを少し分けてあげるくらい、そんなに嫌なのか?」
彼は少し間を置いた。怒りを押し殺しているような声だ。
「エレンは今日、嫌な目に遭ったんだぞ。それなのに、まだあいつと張り合うなんて、明澄って本当に器が小さいな」
4年間ずっと譲り続けてきたものが、最後には「器が小さい」という一言に変わった。
私はもう、言い返すことさえ馬鹿らしく思えた。
電話を切ったあと、不動産会社の担当者に電話をかけた。
購入するはずだった家は、会社の近くに選んだものだった。
1200万円の手付金には、5年間働いて貯めた私の預金を使った。
担当は電話に出ると、親しげな声で言った。
「玉浦様、荻村様から、明日モデルルームを見に来ると伺っています。時間を変えられますか?」
「もう見ません。手付金を返してください。違約金は契約どおり差し引いてください」
「荻村様はご存じですか?」
「お金を払ったのは私です」
自分の声が、驚くほど冷静なのが分かった。
「結婚するための新居は、もう買いません。結婚もしません」
電話を切ったあと、私は玄関の棚を探った。
文昭の車で使われていた後部座席クッション、酔い止めパッチ、車用の香り袋。そして小さな革の小物入れ。
その小物入れは、私が助手席の収納に置こうと思って買ったものだった。
文昭はそれを見つけたとき、ただ一言、「車の中をごちゃごちゃさせるな」と言った。
その後、私はエレンのSNSで、その収納いっぱいに口紅やヘアピン、お菓子が詰め込まれているのを見た。
私は棚から出したものを一つずつ、ゴミ箱に入れていった。
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