みんな、さようなら第3話
この話は約2608字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
雅人は奈美と美桜を連れて、ようやく私を置いていったあの道へ戻ってきた。
道の街灯はぼんやりと黄ばんでいて、風には潮の匂いが混じっている。
私はもうそこにはいない。あるのは、がらんとした通りと、寄せては返す海風だけ。
雅人は眉をひそめ、胸のあたりに言葉にならない焦りがにじむ。
そのとき、彼のスマホが震えた。
画面には、私からのメッセージが浮かび上がる。
――【迎えに来なくていい。自分で家に帰ったから】
彼は思わずほっと息をついた。
だがその息がこぼれた途端、胸の奥はますます空しくなった。
私は別荘で荷物をまとめている。
部屋に残る馴染んだ匂いが、息苦しい。
雅人から電話がかかってきたが、私は画面に浮かぶ名前を見つめるだけで、出なかった。
泣くべきか、笑うべきか、それすら分からない。
もしかしたら、最初から期待なんてするべきじゃなかったのかもしれない。
奈美と初めて会った日のことを思い出す。
私が十歳の時だった。里親の家庭から、私は生みの両親のもとへ引き取られた。
あの家こそ、夢が始まる場所だと信じていた。そこには、ぬくもりと笑い声、そして家族が待っているはずだと思っていた。
けれど扉を開けると、両親は別の女の子を抱きしめていた。
彼女はつややかな髪をして、私が一度だって持ったことのない白いワンピースを着ていた。
「この子が奈美よ」
母はやさしく笑いながら紹介した。
「あなたが行方不明だったあの数年間、彼女はずっと私たちのそばにいてくれた」
父は続けて言った。
「晴香、奈美は君より年下なんだ。分別を持って、妹の面倒を見てやりなさい」
そのとき「分別」という二文字が、胸の中をちくりと刺した。
それでも私は笑ってうなずいた。
「うん、わかった」
けれど奈美はかすかに笑っただけで、その目には温もりはなかった。
あとになって知った。
私がいなくて、里親のもとで暮らしていたあの年月、奈美は私の部屋に住み、私のベッドで眠り、私の両親を「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。
そして両親もまた、彼女を本当の家族として扱っていた。
両親は口をそろえて「奈美は何も悪くない」と言った。
そして私は、分別よく振る舞うことを求められる側になった。
あるとき、彼女が食卓でうっかりグラスを割った。
私は立ち上がって手伝おうとしただけなのに、彼女は手を押さえて泣き出した。
「晴香、怒らないで。私が悪いの」
両親が駆けつけ、すぐに彼女をかばった。
母は眉をひそめて言った。
「晴香、もっと優しくしなさい。彼女はまだ幼いのよ、怖がらせないで」
そのとき、私は初めてわかった――
この家では、彼女が泣けば、それだけで私のせいになる。
やがて奈美は、留学へと送り出された。
両親はこう言った。
「彼女には外の世界も見てほしいし、あなたたちがまたぶつからないためにもね」
けれど、その日を境に、両親の私を見る目は変わった。
そこには、警戒と失望、そしてどこか他人行儀な冷たさが混ざっていた。
そのころから、私は口をつぐむことを覚えた。
あの頃――みんなが私を避けていた時期に、雅人が現れた。
その大雨の日の放課後、校門のベンチで私はぼんやりしていた。
彼は近づいてきて、ホットココアを私に差し出した。
「無理に笑わなくていいよ。今日はうまくいかなかったんだろ?」
私は彼を見つめた。初めて、そんなふうに見抜かれたのだから。
それからは、私が責められるたび、彼がそっと寄り添ってくれた。
あるとき、私は泣きながら「みんな、私のこと信じてくれない」と訴えた。
彼は私の隣に腰を下ろして、小さな声でささやいた。
「俺は信じるよ。それで、もういいんじゃない?」
あの時から、私の世界に光が差し込んだ。
優しさは作り物じゃないと、最初に教えてくれたのは彼だった。
長い青春の中で、彼だけが私の救いだった。
記憶の中から我に返ったときには、涙がすでに襟元を濡らしていた。
あの光は、たしかにかつては私の人生のすべてを照らしていた。
でも今、光の先にいるのは――別の誰かだ。
その時、チャイムの音が鳴り響き、記憶の糸をぷつりと断ち切る。
私はドアを開ける。
雅人が飛び込んできて、私を強く抱きしめた。
夜風にまぎれて、潮の匂いがふっと立った。
「晴香、ごめん。わざとじゃないんだ」
彼の声は低く、どこか切羽詰まっていた。
「本当に……時間に気づかなかっただけなんだ」
私が口を開くより先に、玄関口からか細い声が聞こえた。
「晴香、ごめんなさい。全部、私のせい」
奈美が美桜を腕に抱いて、そこに立っている。
目尻はうっすら赤く、震える声はちょうどよく哀れを誘う。
「責めるなら私を責めて。雅人は悪くないの。海辺の花火を、どうしても見たかったのは私だから……」
彼女はそう言いながら近づいてくる。その眼差しはあまりにも優しくて、見ているだけで胸が痛くなるほどだ。
雅人は手を伸ばし、そっと彼女の手首を軽くつかむ。
「奈美、君のせいじゃない。自分を責めるな。気が回らなかったのは俺のほうだ」
そのとき、私の目に映ったのは――
彼が、別の女を優しく慰めている姿。
その瞬間、私はふと悟った。
彼は、わざと私を傷つけたわけじゃない。
ただ、弱く見える人を先に守ることに、あまりにも慣れてしまっているのだ。
彼はそれを責任だと思っている。
けれど気づいていない――その「気遣い」が、少しずつ私を壊していることに。
空気は不気味なほど静かだ。
二人を見つめて、私はこの光景がたまらなく皮肉だと感じる。
私のことを婚約者だなんて言いながら、彼は私の目の前で別の女をかばっている。
私の唇がかすかに動き、喉の奥が締めつけられた。
「雅人」私は小さな声で呼ぶ。
「あなたは、本当に人を慰めるのが上手」
彼は一拍置いて硬直し、視線が茫然とほどける。
私は言葉を続ける。
「ただ――相手を、いつも間違える」
彼はその場に立ち尽くし、ようやく何かに気づいたようだ。
私は顔を上げ、天井の灯りを見つめる。
眩しすぎる光が、目にしみた。
「私がまだ怒ってると思う?」
私は苦笑して首を振る。
「もう怒ってないよ。だって、もうどうでもいいから」
彼は手を伸ばし、私を引きとめようとする。
「晴香、俺はただ……」
私は一歩引いた。
「説明しなくていい。分かってるから」
自分でも驚くほど、私の声は淡々としていて、よそよそしい。
背を向けて、私は寝室に入る。
その瞬間、胸の奥がからんと虚しく響いた。
砕ける音ではない。墜ちていく静けさだ。
その空っぽな響きは、どんな謝罪よりも強く響いた。
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